2012年3月12日月曜日

3・11に寄せて

朝からテレビが特集を組んでやっていますが、あれからもう一年たったのかと思います。あらためて東日本大震災で犠牲になられた方々に哀悼の意を捧げます。


このブログに個人的な体験を載せるべきではないのですが、あの日、すべての人が見たこと思ったことを、これからも忘れてはならないとの思いから、一つの例として僕が3・11に体験したことを紹介させていただきますことをお許しください。

今でも鮮明に覚えています。経験したことのない激しい揺れ、屋外に避難する人々、点滅したままの信号、繋がらない携帯電話、動かない交通機関、繰り返す余震の中、飛び込んできた津波の映像を見て、初めて何が起こったのかわかった衝撃。やがて歩き出す人の群れ。




震災当日、僕はたまたま神奈川の戸塚にいました。この写真は地震直後の戸塚駅付近。駅前のデパートから従業員が次々に出てきました。この辺りは一帯が停電になり営業を再開する店舗はありませんでした。

  出張先のスーパーを出て柏尾川の土手を歩いていた時に激しい揺れが起こる。身の危険は感じませんでしたが、川の左右のマンションからガチャガチャと物が落ちる音と悲鳴が聞こえる。揺れの長さからこれは相当大きな地震に違いないと思いました。震源がどこか気になって家に電話をしましたがつながらない。メールも送信できず嫌な予感が膨らんでくる。スーパーに戻ると停電していて真っ暗、商品が床に散乱しており、しかもスプリンクラーが作動して一部水びたしになっている。電気が復旧しない限り店舗の片付けができないので会社に帰ることにする。同僚はスーパーの管理者とテナント責任者で今後のことを話し合うので残りましたが、電車も動いてないだろうしどうしようと心配していました。
  再び駅に向かうと信号は点滅していて早くも渋滞している。停電しているのでテレビやインターネットなどで情報が入らず、多くの人がまだ状況がつかめていなかった。駅まで来るとデパートの従業員が大勢外に避難していて店舗は閉まっていた。停電が広範囲に及んでいることが分かった。駅の天井からテレビがぶら下がっており、ようやく何が起きたのか知る。余震が続く中、津波の映像が繰り返し流れ、これは大変なことになった。と慄然としました。
  会社にしても自宅にしてもどうやって帰ろうか?バスは長蛇の列で、しかも乗ったところで渋滞で動いていない。JRの運転再開を待ったが一行にその様子はなかった。動かない電車に見切りをつけて戸塚駅から徒歩で東に向かう。どこまでいけるか?どこまでいけばいいのか?家族の安否もつかめぬ以上(SBの携帯でしたがメールがつながったのが11時頃でした)歩くほかない。明日までに東京まで、いや横浜まで行けば何とかなるかもしれない。そう思いながら国道1号線(旧東海道)を歩きました。

  暗くなるにつれ冷え込んで、耳が冷たくなり鼻水が出る。途中レジ袋、新聞紙を拾い野宿も覚悟する。1号線はどこまでも渋滞が続き人が歩く速度より遅い。保土ヶ谷区に入るまでは停電で真っ暗。そんな中ものすごい数の人たちが歩道を黙々と歩いている。人それぞれ事情があろうが、きっと自分と同じ気持ちだろう。

  保土ヶ谷区に入ると停電しておらず、街灯の灯に勇気づけられる。臨時休業している店も多い中、コンビニだけはどこも営業していた。店内の暖房がありがたい。レジ前やトイレから縦横に続く行列。すでに大半の食料品が消えた棚に、店員さんが必死にバックヤードから補充をしている。
「こんな時だからこそ」という心意気を感じた。僕はたまたまその日、お金の持ち合わせが少なかったのであまり使えない。腹も減っていたが自分が食べ物を買ってしまうと、後ろに並んでいる子供などが買えなくなってしまうと思い遠慮してワンカップだけ買った。さすがに酒を買う人はあまりいない。レンジで燗をして飲むと体が温まった。まだ家族とは連絡が取れないが、震源が東北でここが神奈川にせよ倒壊している家屋が皆無だったので次第に安心感が出てくる。
 食料品がなくなったスーパーの棚。品物が入荷しなくなるのでは?という消費者心理で買い占める人が続出したのが大きい。
実際、東北以外は流通は正常だったが、異常な需要高騰が起こり、種々の混乱が起きた。
 
  権太坂を超え、保土ヶ谷駅の公衆電話で家族の無事を確認しホッとする。また会社に電話して横浜まで歩いて避難所を探すと報告する。夜半に横浜駅のそばまで来ると公務員の人だろうか?みなとみらいにパシフィコ横浜という国際会議場がある施設が避難所になっているというのでそこに行ってくださいと誘導していた。これ以上歩いてもこの先避難所があるかわからないし、横浜駅はいろんな路線が集中しているので動く路線もあるかもしれないと思ってパシフィコに向かうことにする。案外遠い。

  パシフィコ横浜にはものすごい数の帰宅難民が集まっていたが、巨大ホールなのでまだまだ余裕があり横になるスペースが十分にあった。何よりテレビが見たかった。スタッフの人に一台だけどこかにあると聞いて探したが、広すぎてわからない。ようやく会場の隅に見つけたのは家庭用の小さいテレビだった。そのテレビを皆食い入るように見ている。次々に入ってくる情報、すさまじい津波の映像にくぎ付けになった。20万人以上が犠牲になったスマトラ島沖地震を思い出す。


画像は悪いが携帯で撮った3・11のパシフィコ横浜。6~7千人いたといいます。

 着いたときは何もなかったが、2時過ぎになると毛布が次々運び込まれる。しかし人数が多すぎてなかなか行き渡らない。お年寄り、女性が先なのは当然。男性は努めて女性に譲っていた。中には支給された毛布を頑として受け取らず、近くの女性に渡そうとした年配の男性が女性に説得されて仲良く一緒に入るという微笑ましい光景もあった。僕は拾った新聞をセーターの下に巻き、余った新聞を敷き、靴を枕に横になる。腹は減っていたが支給されたみかんで空腹をしのいだ。被災地で寒さに震えているだろう人たちを想った。

 翌朝、京急が動いているというので横浜駅に向かう。横浜駅には大勢の人が毛布にくるまって寝ていた。京急で品川まで行く。品川駅はJRが不通なので何万という群衆が立ち往生。危険を感じるほどだった。僕はそこから都営三田線の白金台に向かう。1キロちょっとだが疲労のせいでやたらと遠く感じる。はたして三田線が動いているのか?と思ったが以外にも通常に近いダイヤで運行していた。昨晩のことを思うと交通機関のありがたさが身に染みる。三田線に乗り春日で降りると、後楽園のコンビニでおにぎりを食べようやく人心地がついた。しばらく後楽園のベンチでぼーっとしたあと南北線に乗る。すぐにホッとして眠りに落ちた。寝過ごして新井宿を通り過ぎるかもしれない。でも、今だけは寝かせてほしい。
新井宿駅から地上に出るといつもと変わらない様子に拍子抜けする。2時過ぎにようやく帰宅できた。


 この写真は3・11ではなく、3・15の朝のつくばエキスプレスの南流山駅。行列がはるか向こうまで続いている。しかしこの行列はさらに長い階段を下り、改札を通り抜けホームまで続いていた。通勤客はこうして動かない電車を辛抱強く待っていた。結局つくばエキスプレスはこの日は夜まで運転見合わせだったので、行列は徒労に終わった。震災からしばらくたっても一部路線では復旧が遅れこのような混乱が続いた。計画停電、ガソリン不足、食料品不足などと同じで忘れられない光景です。
 計画停電時の様子。ろうそくを囲んでワンセグテレビに見入る。電気のありがたみを実感する。被災地の人や独り身の人はそうは思えなかっただろうが、家族と団らんするなど、意外と楽しかったという人が多い。

今なお故郷にもどれない方々、将来や生計のめどが立たない方々、そして肉親や友人を亡くした傷が癒えない方々がいるということは、この災害がまだ終わったわけではないということを個人としても団体としても心底におかなければならないと思います。そしていつの日か被災者の方々が笑顔を取り戻せる日を切に祈っております。

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