2012年7月3日火曜日

伊奈忠順と宝永噴火を巡る旅-後篇

第1回御厨調査団その2


PM12:50 伊奈神社


道の駅を後にして、いよいよ忠順を祀る伊奈神社へ行く。伊奈神社の由来は前回のブログで紹介したとおりだが、実際この目で見てみたかった。やっと念願かなう。



伊奈神社鳥居 思っていたよりずっと立派な神社だった




拝殿と本殿



御厨の父 伊奈半左エ門忠順公の像と書いてある




伊奈忠順像 じつにシブイ! 富士山を見つめている。

*クリックして拡大できます
忠順像 背の低い人だったという 昭和57年建立

  
本殿の脇に取り付けてある忠順と被災民を描いたであろう木製のレリーフ

当地の忠順への深い思いがわかる


*ユーチューブに伊奈神社の動画がありましたので、アドレス付けておきますので見てみてください。



PM1:47 富士霊園付近の採砂場
伊奈神社を後にし、富士霊園に向かう。その周辺には今なお大量の火山灰が堆積しているという。その火山灰の収集が目的だ。富士霊園には確かに火山灰はあったが、やはり不謹慎なので他で採取することにする。


富士霊園 広大な敷地一面火山灰(砂)が敷き詰められている



富士スピードウェイに向かって走ると途中で下のような採砂場があった。これぞ我々が捜していたものだ!



偶然見つけた採砂場
作業しているおじさんに聞いてみた。「あれは火山灰ですか?」すると「そう、スコリア(火山噴出物)」と専門用語で返してくれた。間違いない。

許可を取って早速1枚。またしてもT氏を定規に使ってしまった。

3メートル以上ある降砂層


この砂の量のすごいこと。ほぼ無尽蔵に思える。この砂をダンプにどんどん積んでいく。何かの資材になるらしい。この黒っぽい砂、触ってみるとサラサラして軽い。泥もつかない。後で調べてみたがスコリアとは軽石の一種だという。もちろん採取してきた。



PM2:15 小山町吉久保 水神社




水神社に到着。ここも別名伊奈神社と呼ばれていて、大正3年建立の「遺徳千秋」という伊奈忠順を顕彰した記念碑がある。この記念碑こそ、この地方とわれわれの住む川口市神根地区(新井宿・赤山を含む近在12村は旧神根村に属していた)を結びつける重要物件だ。

 昭和15年編纂の「神根村誌」の中に「山王社 付近に赤山城跡あり、また、境内に伊奈忠順遺徳碑文あり、左に之を掲ぐ」とありこの水神社にある「遺徳千秋」の碑文が掲載されている。この地の人が神根村に贈ってくれたのか?神根村民がこの地を訪れたのか?定かではないが、この碑が建立された前後に何らかの交流があったのかもしれない。

赤山陣屋(川口市)にある日枝神社 忠順の祖父忠常(伊奈家5代)が建立した
当時は八幡宮と言ったらしい

 

 ちなみに山王社とは今の赤山山王日枝神社のことだが、ここに遺徳碑文が今もあるのかまだ調べていないのでわからない。そしてここには宝永4年(1707年)11月に忠順が建碑した「八幡宮碑」がある。この日枝神社と八幡宮碑が伊奈家改易後の赤山陣屋の徹底破壊を唯一まぬがれた伊奈家の遺跡だ。そんな理由で遺徳千秋の碑文が納められたのだと思う。




忠順の建てた八幡宮碑 裏面に忠順の書いた銘文がある


 宝永4年11月と言えばまさに宝永噴火の直前だ。忠順は石碑のなかで父母の報恩と子孫の繁栄を神助に願っている。



遺徳千秋の碑 ちょろっとT氏が映り込んでしまう。


遺徳千秋の碑は題額が徳川家達、撰は徳富猪一郎(蘇峰)徳富蘆花のお兄さんだ。碑文には蘇峰が当地の古老より忠順の言い伝えを聞いて感激した経緯が書いてある。(碑文の訳は本編「伊奈氏の200年」に掲載する予定です)

 ここまで来て気が付いたことだが、この地方はどこに行っても火山砂(スコリア)がある。富士浅間神社、伊奈神社、富士霊園、ここもそうだ。わざわざ敷き詰めているのかと思ったがそうではない。今なお地面が砂で覆われているのだ。宝永噴火から300年経っても砂は除去されずにある。この途方もない降砂と戦った当地方の人々の執念。為政者で唯一それに寄り添った忠順。忠順を顕彰することで自らの砂との戦いを永世忘れないという想いがあるのだろう。


何も書いていない石祠


 遺徳千秋の碑の並びに石祠がある。全く何も書いていない石だ。この地方の村々ではこのような小祠がひっそりと祀られていたという話も聞く。公儀の目をはばかってのことらしい。想像だが、村人たちはこの何も書いていない石に向かって忠 順への感謝の念を捧げるとともに「私たちは勝ちました」と誇らしく語りかけてきたのではないかと思った。













PM 4:00 小田原市酒匂

酒匂会所跡




 時間が余ったので予定にはなかった小田原市酒匂に行く。宝永5年2月。忠順は酒匂川の砂除川浚奉行に任ぜられるとこの地の名主、川辺段右衛門の屋敷に会所(事務所)を置いたという。この屋敷は酒匂川左岸に近く、東海道に面している。会所としては適所である。
 酒匂川は富士東麓の降砂が支流に流れ込み、河口に近づくにつれて大量の砂が堆積し、氾濫を繰り返すようになる。忠順は降砂が深刻な御厨地方(駿東郡59か村)の復旧に派遣されてきたのではなく、当初は川普請を命じられてきたのである。詳細は本編に書くとして、忠順はこの川普請でも苦い思いをする。


川辺段右衛門屋敷の一部


 酒匂会所となった川辺段右衛門の屋敷は門と屋敷の一部が残っており、今は福祉施設の一部になっている。特別に施設の方のご厚意で中を見せてもらった。段右衛門は紀州の出で、この地に住みついて財を成したという。



内部から前庭を見る

 屋敷の左手には日本庭園があったというが、今はその面影はない。忠順はこの屋敷から三日とあけず現地を視察したという。また翌年の宝永5年5月、忠順自身がここから御厨地方の巡検に出かけている。


PM5:43 港北PA


 酒匂を出て、帰路に着く。途中港北PAに寄る。




PM6:00 新井宿に帰還
華屋与兵衛で打ち上げ。過密スケジュールにもかかわらず無事に帰ってくることができた。収穫の多い旅だった。歴史を辿ることは推理小説のようでとても面白い。今後も第2回御厨調査団、また、伊奈氏の事跡を求めてあちこち行って参りますのでご期待ください。
また、今回の旅で親切にしてくださった方々にはこの場を借りて御礼申し上げます。ありがとうございました。
宝永噴火と伊奈忠順については詳しくは本編↓をクリックしてください。

http://araijuku2011.jp/inasi01/
 
 

 





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