2013年6月8日土曜日

伊奈氏の200年―幻の野菜のらぼうを探しに

 
東京都あきる野市特産ののらぼう菜
 
AGC歴史調査団、関東郡代伊奈氏の200年研究班、調査員のA・Oです。
このように書くとAGC(新井宿まちづくり)の中の歴史調査団という部署の中で、伊奈氏の200年研究班という小グループに属する班員という途方もなく大きな組織の一員という印象を抱きますが、本当いうと僕しかいません。こう言った方がかっこいいなと思ったからいっているだけです。
どこかに調べに行くときには調査団と称し、デスクワークしているときは研究班と称しています。つまりやっている内容で団とか班と言っているだけであって、組織系列を表しているわけではなかったのです。悲しいですね。

そんなことはさておき、今年の伊奈氏研究の本編は利根川東遷史をやっていますが、実は去年から本編以外にあちこちに事跡を求めて現地調査に行っています。それがだんだんたまってきたのでこぼれ話として紹介していこうかと思いまして今後小出しにしてブログアップしていきますんでよろしくお願いします。

今回は幻の野菜「のらぼう」について


このほうれん草のような菜っ葉が伊奈氏に何の関わり合いがあるのか?まずは下記の長い説明をご覧ください。
「五日市のらぼう」とは、あきる野市五日市特産の地野菜である。「のらぼう」と呼び名が変っているが、正しい名称は「野良坊菜」。アブラナ科の食用野菜で、収穫は春。東京都あきる野市日の出町を中心に、青梅市、埼玉県の飯能市、日高市、神奈川県川崎市多摩区等で栽培されている。味は太い花茎の部分に甘みが詰まっており柔らかく、歯ごたえがあり癖のない味。ちなみに「かき菜」と外見は似ている
が味は全く違う。東京都あきる野市周辺では江戸時代から春を告げる味覚として300年以上前から簸たしまれ、その地域で知らない人はいない。最近では学校給食にも使われている。種苗メーカーの記述によると花茎を食べる野菜は、万葉の昔から日本全国に数多く有るが、味では「のらぼう」がナンバーワンであろう。 遺伝子が三倍体になっているため他の菜類と交配しない等、相当昔に生まれた野菜のようである。無農薬で栽培されているため、最近は健康野菜としても注目を集め始めている。

~五日市のらぼうウェブサイトより~
http://nipponsyokuiku.net/syokuzai/data/040.html
 
当地では学校給食にも使われるほど馴染み深い野菜で
あり、味についても相当な自信を持っているようである。
じつは私もこの4月に幸手市の権現堂堤の桜を見に行
ったときにそばにあった農産物直売所に偶然のらぼうを
発見し買ってきた。
味はほうれん草とも菜の花とも違う、独特な風味でおひ
たしにしても油いためにしてもうまかった。茎の方がうまく
、少し甘味がある。何かいろんな料理に使えそうな可能性
を感じた。


           幸手市の権現堂堤

この説明でものらぼうと伊奈氏の関係がわからないと思うので、次にウィキペディアで伊奈忠宥(ただおき)を見てみよう。
「明和4年(1767年)9月、支配する天領の農民に闍婆菜と名づけた西洋菜の一種の種を配り、栽培を奨励する。これはのちに丈夫なことから野良生えと呼ばれ、のらぼう菜と呼ばれている」~ウキペディアより~
 
そうです!なんとのらぼう菜(闍婆菜)は伊奈忠宥が広めたのが始まりなのです。それが五日市で永く伝えられ、幻の野菜として最近ではあちこちで栽培されているというのだ。
のらぼう菜の原産は地中海で、オランダの支配地の
ジャワを経由して日本に入ってきたらしい。おそらく長崎の
出島から種と栽培方法が幕府に伝えられ、それが関東郡代の支配地で試験的に普及栽培されたものだろう。関東
以外では伝わっていないことからそのような経緯が推測
できる
そんなわけで、早速のらぼうの里、五日市に行ってきました


武蔵五日市のホーム。東京いえどここまで来れば山の中

 武蔵五日市駅は山の中にあった。ここに来た目的は、
野良坊菜の碑というのが、子生神社という神社の境内に
あるというので見に来た。地図を見ると駅から2キロ
ぐらいある。


             武蔵五日市駅
檜原街道をまっすぐ進む

道すがら郷土料理を扱った飲食店が目立つ。秋川渓谷沿いの観光地ということがわかる

あった!黒茶屋という看板の向こうに見えるのが
子生神社だ。
 う~ん。寂れている
 あった!のらぼう菜の碑
のらぼう菜の碑

こう書いてある

野良坊菜の碑明和四年(1767年)幕府代官伊奈備前守
が地元名主代表小中野四郎衛門、網代五兵衛に命じて、
引田、横沢、館谷、高尾、留原、小和田、五日市、深沢、
養沢、原の十二ケ村にのらぼう菜(闍婆菜)を種子を配布
し、栽培法を授けて、これが繁殖を計らしめた。即ち秋に
植付けて越冬し春の食料不足となる端境期に新芽を
賞味せしめた。

この菜が天明天保の大凶作に多くの住民が飢餓にさら
された際、人命の救助に役立ったと伝えられている。慈
(ここ)にその事績を永く後世に伝える為、建碑するもの
である。

昭和五二年春日
秋川の自然と文化を護る会

伊奈備前守忠宥(いなびぜんのかみただおき)は伊奈家10代、関東郡代としては8代目に当たる。明和元年(1764年)街道の伝馬制度の負担増に端を発した江戸時代最大の一揆の中山道伝馬騒動を見事に収拾した名代官である。
その忠宥が明和4年にこの地ばかりではなく武蔵国の
支配地のあちこちに栽培を奨励したのがこの闍婆菜で、

天明・天保の大飢饉で領民を救ったという。
この話は埼玉県の比企郡でもある。つまり、忠宥は領民にとっては命の恩人なのである。

関東郡代は代々試験農業みたいなことをしていたらしく、
先々代の忠逵は宝永噴火の被災地で、青木昆陽に先
駆けて甘藷(さつまいも)の栽培を試みている。これも宝
永噴火の火山砂で救荒作物として被災民を救うことが
できないかとの発想である。しかしこれは焼砂が甘藷の

栽培に適しておらず、うまくいかなかったようだ。
そして、忠宥もこれ以前に朝鮮人参御用掛を仰せ
付けられていることから、幕府は関東郡代に様々な試
験農業をさせていた節がある。伊奈家が農政のエキス
パートたるゆえんである。

檜原街道に沿って流れる秋川。秋川渓谷は夏に
川遊びのメッカとして都民の憩いの地になっている。
 
五日市郷土館にある古民家。山里の家らしく軒下
に薪が積んである。ちなみにあきる野市には伊奈という
地名があり、その昔、信州伊那谷の石工たちが、この地
の加工しやすい石材(伊奈石)に目をつけて住みつき
村を開いたそうである。信州伊那は伊奈家発祥の地と
いわれているので、不思議な因縁である。

 

五日市の人ののらぼう愛は相当なもので毎年3月
の最終日曜日に「野良坊祭り」が子生神社で行わ
れている。下が野良坊祭りの様子。クリックしてください。

http://members2.jcom.home.ne.jp/ichikondo/03%20noraboumatsuri.html
とにかく、関八州に伊奈の汗の落ちていない地はない
と言われているように、こんな所にも今なおその事跡が
伝えられている。本拠川口赤山に住む我々はもっと調
べて学ばなければならないと思いました。

これからも、こういうこぼれ話を上げていきますのでお
楽しみに。では。





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