2014年3月28日金曜日

龍神伝説の謎に挑む~関東郡代伊奈氏の200年


不思議な石仏
 
                 

                   伊奈家墓所にある聖観音の石仏
 
 川口市の赤山にある源長寺の伊奈家墓所には不思議な石仏がある。目を閉じ左手に蓮の花を持つ、たおやかな聖観音。向かって右に戒名が、左におそらく命日が刻まれている。雲晴院殿叡誉妙喜大娘、万治2年2月5日。

これは誰を供養したものだろう?万治2年は西暦1659年。戒名に“大娘”とある。当時女性は13歳からは大人の女性だったので、その場合“信女”とか、偉い人の場合“大姉”と書かれる。したがってこの人は少女のはずである。そして、ここは伊奈家当主達の墓所なので、ここに祀られているとすれば当然当主の家族ということになる。万治2年の当主と言えば4代目関東郡代の伊奈忠克(ただかつ)。この少女は忠克の娘だったのだろうか?記録には忠克は正室を置かず、嫡男忠常も杉浦何某という人に嫁いだ娘も妾腹だったという。記録にはないがこの少女もその一人だろうか。

何より不思議なことはこの石仏の裏に延享元年11月に伊奈忠逵ただみち(第8代)・忠辰ただとき(第9代)親子がこれを立てたと彫られていることだ。延享元年というと西暦1744年。なぜこの二人は85年前の少女のために石仏を立てたのだろう?

龍神伝説

ある春の暖かい日、伊奈の御姫様が陣屋の裏手にある大きな沼(北側の沼)でひとり、舟に乗って遊んでいました。すると突然、空がかき曇り、真っ黒な雲が天を覆い、大きな雷鳴とともにまぶしく輝く稲妻がお姫様の上に落ちました。その瞬間それはそれは大きな龍が逆巻く沼の水の中を雷鳴とどろく大空に向かって、一直線に舞い上がっていったそうです。そして気が付くと姫がいなくなっていた。

茫然となって眺めていた伊奈の殿様も、我に返って直ちに家来に命じてお姫様を探させましたが、残念なことにその姿を見つけ出すことはできませんでした。

         

         

  


それから何日かたった頃、沼のほとりの竹藪の中で、村人がよく白蛇を見かけるようになりました。それはそれは美しい蛇だったそうです。村人たちは、この白蛇を龍にさらわれたお姫様の化身と考え、大切にするとともに沼のある竹藪の中に立派な祠を建てて、お姫様の霊を祀りました。この祠は赤山の鬱蒼とした竹藪の中で代々守り継がれてきました。今でも水神様と呼ばれて石の祠として残っています

 
             

              赤山陣屋の二の丸にある水神祠
 

伝説の沼

  


西から沼を望む。水深はかなりあったろう。谷の向かいは御陣山

  

伝説の舞台になったのは赤山陣屋の北側の出丸(御陣山)を囲むようにあった沼である。下図と写真を見ればわかるとおりかなりの大きさがあり、深さも多いときで4~5メートルはあったと思われる。伝説のような超常現象が何だったのかはさておき、この沼で伊奈家当主の御姫様が行方不明になった。しかしあまりに異常な現象だったために龍神伝説が作られた。とは考えられないだろうか?
 

      


          沼の地図。出丸(御陣山)囲んでいる

 

この沼は赤山陣屋創建(1618年)からしばらくはあったが、その後農地開発によりだんだんと姿を消していった。新編武蔵風土記稿(1830年)によると、この沼があった赤芝新田はもとは赤山陣屋の内とされていたが、開発により正徳4年(1714年)に伊奈半左衛門(忠逵)の検地を受けて村となったとある。少なくともそれ以前は沼があっただろう。龍神伝説は正徳4年(1714年)より前の話ということになる。その後も開発が進むごとに寛保4年(1744年)と天明4年(1784年)にそれぞれ忠逵、忠尊の検地を受けている。おそらくその過程で沼は埋め立てられていったと思われる。

伝説の真相と石仏



       
伊奈家墓所


 すこし時系列を整理してみる。まず石仏の命日は1659年。沼の開発が始まって最初の検地を受けたのは1714年。2回目が1744年。この2回とも忠逵が行っている。そして忠逵・忠辰が石仏を立てたのが1744年の11月だ。この2回目の検地と石仏の建立が同じ年。寛保は2月21日(グレゴリオ暦で4月3日)に延享に改元しているので検地は春に行われたはず。そしてその年の11月に石仏が建てられた。

第4代関東郡代の伊奈忠克は赤山陣屋に妾とその娘を住まわせていた。娘の名は“叡”(えい)という。えいはおてんばでよく笑い、笑顔のかわいい子だった。明暦の大火(1657年)で常盤橋御門の役宅が焼けて、馬喰町に新たに役所地を賜ったとはいえ、関東開発の仕上げに掛かっている忠克は赤山で執務を取ることが多かった。
 
 
赤山陣屋
 
万治2年のある春の暖かい日。えいがいつものように沼で一人舟遊びをしていると、急に真っ黒な雲が空を覆い雷鳴とともに落雷や猛烈な突風といった異常な気象現象が起きた。おさまって沼を見ると船だけが残され、そこにえいの姿はなかった。あわてた忠克が捜索を命じたがえいの行方はようとして知れなかった。このことは伊奈家中では事実として伝えられてきたが異常な失踪なので墓も立てず供養されることもなかった。

それから85年後。
寛保4年2月。忠逵の名代で忠辰が赤芝新田の2回目の検地を行った時のこと。開発中の沼底から子供の遺骨が発見された。かつてこの沼で入水自殺をした者はいない。そして神隠し(行方不明)とされた村の子供もいない。思い当たるのはただ一人。“この遺骨は叡姫に違いない”そう確信した忠辰は養父忠逵と相談の上この遺骨を叡姫として供養した。そして延享と改元した同年11月。あらためて聖観音の石仏を立てて父忠克の側に弔った。
 
    
伊奈家菩提寺源長寺
 
忠逵・忠辰父子の心遣い
上記は想像でしかないが、忠逵・忠辰の親子(養父養子だが)が85年前の少女に憐憫をかけ、心を込めて仏を造ったことは間違いない。遠い昔に幼い姫がいた。賢く、よく笑うかわいい子だった。不運な死に方をして死後も弔われることがなかった。せめて父上のそばに置いてあげたい。そのように思ったのだろう。  
伊奈家は代々優しい人が多かったというが、この忠逵・忠辰親子もその優しい心根がこの石仏から想像することができる。歴史は記録や遺跡から事実を明らかにしていくが、私はその時の当事者たちの胸中に思いを馳せることの方により意義を感じている。ちなみに万治2年2月5日はグレゴリオ暦(西暦)に直すと1659年3月27日なのである。“ある春の暖かい日”だったのだろう。雲晴院というのも竜神伝説を想像させられる。
 
3月27日
 
関東郡代伊奈氏の200年研究班
 
龍神伝説続報!

龍神伝説の謎に挑むその2~関東郡代伊奈氏の2
http://araijyuku.blogspot.jp/2014/07/blog-post_13.html
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4 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

研究班のみなさま

日々、活動と熱心な研究お疲れ様です。
今回のブログを拝見しじーんときてしまいました。
人間の住まうところに物語が生まれるのですよね・・・。

わたくしは宮部みゆきさんの小説が好きなのですが、江戸時代のものでお初ちゃんという女の子が活躍する推理・人情ものを思い出しました。
震える岩とか、迷い鳩、騒ぐ刀とか。


一月に出産しまして、会のお手伝いなどなかなか伺えずにすみません。
今後ともよろしくお願いします。
W.K

新井宿駅と地域まちづくり協議会 さんのコメント...

W.Kさんありがとうございます。

言い伝えや伝承は何がしかの事実が含まれていることがあります。特にきれいにまとまっていない話ほど実際にあったことの断片が含まれていると思っています。
それを知りたいと願えば声が聞こえてきますし、耳を澄ませば真実が見えてきます。

伊奈氏以外にも地元には不思議な話があります。これもおいおい明らかにしていきます。

宮部みゆき、読んでみたいと思います。

上根又三郎 さんのコメント...

なるほど、とても納得のいく話の流れだと思いました。これは是非、地元の話として残していきたいですね。

ちょうど週末に郷土資料館の「赤山陣屋と伊奈氏展」で赤山城付近の再現模型を見てきて、そして昨夜の春の雷鳴。その上でこのブログを読んだので、何だかリアルに想像できました。

文末の方に書かれている、
「私はその時の当事者たちの胸中に思いを馳せることの方により意義を感じている。」

まったくその通りだと思います。

新井宿駅と地域まちづくり協議会 さんのコメント...

上根さん

コメントありがとうございます。
春の嵐はなにか心をざわつかせますね。
そういえばお女郎さんも春の嵐で亡くなったんですね。

春は激しい季節ですね。