2014年7月22日火曜日

新井宿ミニフェスタ(ビアガーデン)2014報告

7月19日(土)、新井宿ミニフェスタ(ビアガーデン)が行われましたので報告します。雨にもかかわらずご来場いただきましたたくさんの方々、また、ずぶ濡れの中黙々とお手伝いをしていただいたスタッフの皆様に感謝いたします。

今年の梅雨明けはずいぶん遅いようで昨年より2週間も遅れているそうな。この週末は降水確率90%。しかも夕方から大気が不安定になり所により激しい雷雨とのこと。
毎度当会イベントにお付き合いいただいている赤山陣屋の会さんからは、「外しませんね(雨が降ること)。」と温かいお言葉をいただきました。(苦笑)

去年の夏の感謝祭の様子
 http://araijyuku.blogspot.jp/2013/07/blog-post_7386.html

 どんよりとした空の下、開店後から雨まじりになる。お客さんも少なめ。
 あらかじめセーブした野菜売場の品揃え。アイテムは豊富。
 くじ引きコーナー。子供用のブースとして急遽こしらえる。
 駅前パン屋、ほっぺほっぺさん。今年から参戦していただいている
 すぃ~つばたけさん。クッキーとかき氷
 桜町名店、和菓子の中ばしさんは新商品を試験販売
 駅前とんかつ勝時さんからは、揚げ物ヒーローかつパンマン(右)。に加え、かつパンマンJr(左)が登場。今回からTシャツや前掛けなどのグッズを新調。社運を賭した投資に出ました。このかつパンブラザーズ、どことなく往年のテリーファンク、ドリーファンクの兄弟に似ています。ブッチャー、ハンセンとの死闘を思い出します。次のグッズはNWAチャンピオンベルトでどうですか?

 赤山陣屋の会のコーナー。ピザ、焼きそば、やきとり。テントに調理用機材がずらりと並ぶ。この人たちはもはやセミプロ。赤山の石原軍団と呼ばれている。
東京ウインナーさん。カメラを向けるとススッと御品書きの後ろに隠れる。どうした?
 
当会会員の花屋さん。花卉、苗も当会の顔。
 
 う~ん。雨なのに途切れることなくお客さんが来る。フェスタが定着していることを感じます。と、そこに奥ノ木市長が参上。
当会おもてなし隊の浴衣美女が会場を案内する。
 
 市長は傘も差さずに楽しそうに各ブースを見て回りました。当会会長は「マイクはないのか?マイクは?」とうろたえていましたが、雨の中音響機材を出すことはしません。
 お忙しいにもかかわらず、市長はレストコーナーでくつろいだり、来場者やスタッフとお話をしていました。岡村市長もそうでしたが、こういうリラックスした場で首長と市民が触れ合えることは大変すばらしいことです。市長の気さくな人柄がわかります。奥ノ木市長、ありがとうございます。 秋の大フェスタでもお待ちしております。
 
 ところで今回はチラシに緑の家落成記念と銘打ってありました。緑の家とは元からあった駅前の地主さんの小屋で、これをお貸ししていただけることになり、当会の多目的小屋として内装外装の整備を進めていたものです。それを今回のフェスタで公開しました。
ジャ~ン!AGCテイストの外装。ペンキ屋さんに描いてもらいました。 
 
 正面から。エアコンも付けたんですよ。エッヘン!
 今回のこけら落としとして、以前当ブログで紹介した秋元園芸さんの盆栽展を催しました。
 雅な小品盆栽の世界。床の間にぜひ欲しい。まず床の間が欲しい。
秋元園芸さんの紹介ブログ
http://araijyuku.blogspot.jp/2014/03/blog-post_9.html

 雨が激しくなってきましたが、客足は伸びていく。
 傘を差しながらかき氷を食べ、生ビールを飲む。とてもシュール。
 雨だって余裕で宴会。当会が提案するライフスタイル。
結局最後まで客足は途切れず、大体のものが売り切れてしまいました。 
 20時。閉店に合わせるように激しく降り出す。もうパンツまでびしょびしょ
 
もう雨にはウンザリですがお客さんは確実に増えています。地元の定番行事として浸透していることがうかがえます。今後は濡れないで買い物ができる。濡れないで食べられるよう方法を考えておきます。秋の大フェスタは、晴天であってほしいですが、雨が降ったとしても楽しめるように今から準備をしていきます。10月26日にまたお会いしましょう!では。
 

2014年7月13日日曜日

龍神伝説の謎に挑むその2―関東郡代伊奈氏の200年

源長寺の伊奈家墓所にある謎の聖観音。左手に持つ蓮の花も沼を連想させる

 
*この記事は以前掲載していたものに一部事実誤認があったので、訂正して再掲載させていただいております。

前回の「龍神伝説の謎に挑む」の記事に対していろいろなご意見をいただきました。おもしろい。ロマンを感じる。不思議な話。もう少し手がかりがないのか?等々。
多くの人に興味を持っていただきました。同時に謎の解明を期待する声も多くあり、その後も調査しましたので報告させていただきます。残念ながら謎の解明とはいきませんが、新事実も明らかになりました。

前回の記事
関東郡代伊奈家の200年「龍神伝説の謎に挑む」
http://araijyuku.blogspot.jp/2014/03/blog-post_28.html
*上のURLをクリックしてください

水神祠

6月21日 前から気になっていた赤山陣屋二の丸にある水神祠を調査する。

赤山陣屋の水神祠

この水神様は文化財センターが管理しているので、お願いして特別に祠の中を見せてもらうことになりました。
見ての通りセメントで出来ているので、古いものではありません。たぶんこれは伝説に出てきた祠ではないと思いますが、でも、一度は見てみないとなぁ、と思って文化財センターの方に立ち会っていただき中を見せていただきました。

 祠の内部。蜂の巣と蜂の死骸だらけです。お厨子のようなものがありました。

しかし、お厨子の中は蜂の巣が巣食っていて、中の御神体もこの通りボロボロ。なにか文字が書いてあるようですが、まったくもって判読不能でした。

 文化財センターの人が言っていましたが、この祠は竜神の祠でなくて、伊奈家の作った祠ではないか?ということです。この祠のあるところは赤山陣屋のに二の丸の中。ここに村人たちが祠を建てられるはずもなく。伊奈氏が建てた祠を最近になって誰かがセメントで作り直したものと思われます。ここは北の沼の畔なので伊奈氏が水神様を祀っていたとかそんなところでしょうか?木札の文字がわかれば何か解ったかもしれないので残念です。蜂の奴、、、。

せっかく文化財センターの人まで来てもらって、何の成果もなかったのですが。では龍神を祀ったという祠はどこにあるのでしょうか?沼があったころ、沼の周りには石神村と立野村がありました。どちらかにあったと思うのですがそれらしきものがありません。私は沼の西の丘の上に建つ稲荷社が怪しいと思っているんですが、ここには江戸後期に建てられた石碑があるだけで万治年間や寛文年間あたりの遺跡はありませんでした。石神村の村社(鎮守様)は122号線の昭和シェル石油の裏にある稲荷神社ですが、この稲荷社もなかなか立派なのでここも石神村の村社かなと思っていましたが村社は一つしかないとのことなので、もしや?と思っていました。もともとここが龍神様で、その後稲荷社になったとは考えられないかとも思いますが、その痕跡は見当たりません。でもここが龍神祠だとスッキリするんですが。誰かここの由来を教えてください。
沼を見下ろす稲荷社。ここから北沼を一望できる

伊奈家過去帳

同日 源長寺ご住職から話をうかがう

伊奈氏菩提寺 川口市赤山の周光山源長寺
 
 突然伺いましたが、住職は快く話を聞いてくれました。なんでも少し前同じく龍神伝説と石仏の話をしに来た人がいるらしく、私の他にも興味を持っている人がいてうれしくなりました。住職は話を聞くと特別に伊奈家の過去帳を確認してくれました。その過去帳は延享元年(1774年)10月に第12代だか13代の住職が改訂したものだそうです。あの聖観音の石仏は延享元年11月建立ですのでそのひと月前ということになります。ん?
 
石仏に彫られている戒名と命日
*クリックして拡大するとよくわかります
 
過去帳の中に石仏の「雲晴院殿叡誉妙喜大娘」の戒名があるかドキドキしましたが、ちゃんと載っていたそうです。
 
5日のページにこう書いてあるそうです。
 
「雲晴院殿歓誉妙喜大姉
定弐(式?)法事
万治二年二月五日赤山源長寺葬
 
あれ?戒名がちょっと違うぞ。
 
石仏の戒名は
「雲晴院殿叡誉妙喜大娘
 
雲晴院殿と妙喜は合ってる。
叡誉(えいよ)が歓誉(かんよ)になり、大娘(だいじょう)が大姉(だいし)になってる。
これはどういうことだろうか?
 
*あらためて石仏を確認したところこの部分。ちゃんと「歓誉妙喜大姉」になっていました。なかなか読みづらく、誤って認識してしまいました。お詫びして訂正いたします。
 
 
 じつはこの人の戒名は過去帳を改訂したときに戒名変更されていて、元々の戒名が書かれており、それは。
 
「妙喜信女」
といいます。
 
また、その下に
「忠克妾家女」「万治2年2月」
とあるそうです。
 
 この人は4代目忠克(ただかつ)の妾の家の女ということです。(やっぱり)
 この「妙喜信女」を元に当時の住職は新たに戒名をつけたようです。
 「妙喜信女」の下に「忠克妾家女」とありますが、名前は書いていません。他のページには妾とか妾家と書いた後に名前が書いてある人が多いとのですが、この人はないそうです。
 
  この人は4代目伊奈忠克の妾の娘で、妙喜(よく笑うとか笑顔が可愛いというイメージだろうか?)というのが伊奈忠逵・忠辰(8代・9代)が抱いていたイメージだったことがわかります。
 
 
 
  



聖観音石仏の後ろに彫られた建立年月と伊奈忠逵、忠辰の名前
 
  
 
85年後の供養
 
 今のご住職は、この戒名変更で一番疑問に思うのは院殿号がつけられたことだと言います。伊奈家の過去帳で院殿号が付くのは当主の家族だけ。同じ妾でもついていない人もいる。まして戒名を変更して院殿号がつけられるというのはこの過去帳には他にありません。つまり、この過去帳はこの「妙喜信女」に院殿号を与える、また、石仏建立に合わせて改訂されたものだと思えます。
 
寛保4年(1744年)春、北の沼があった赤芝新田の検地をおこなう。
改元して
延享元年(1744年)10月、伊奈家過去帳を源長寺に改訂させる。
延享元年(1744年)11月、聖観音石仏建立、頌徳碑隣に安置する。
 
石仏に忠辰、忠逵と連名であるところから石仏建立は忠辰の発願だったのではないかと思います。忠逵の発願なら忠辰と連盟にしないはずです。寛保4年の検地は忠辰が当主の名代として北の沼のあった赤芝新田に赴き、そこで85年前に亡くなった(失踪した?)姫のことを強く想起させる出来事があったのではないでしょうか?そこで忠逵と相談の上供養しようということになった。この頃は伊奈家当主が赤山に来ることはほとんどなかったことを考えると忠辰、忠逵の連名の理由は忠辰がここに来てそうしようと思ったから、と思われます。このとき忠辰40歳、忠逵55歳。2年前に寛保の大水害に見舞われ、復旧工事に尽力し、前年には宝永噴火の被災地の支配をようやく終えるなど、数々の難事を越えながらも、猶前途に困難が予想される時期でした。彼らは石仏にどんな思いを込めたのでしょうか?
 
伊奈家頌徳碑の隣に立つ聖観音石仏
 
 
 4代目伊奈忠克の妾の娘で、妙喜(よく笑うとか笑顔が可愛いというイメージだろうか?)な姫。
 上記のような姫のことが伊奈家では伝えられていた。そして85年経って突然その姫のことを思い起こさせる出来事があった。そこで忠逵・忠辰は最大級の扱いで心を込めてその姫を供養した。龍神伝説があろうとなかろうとこれは事実です。
 
今回の調査では龍神伝説と石仏を結ぶ証拠は出てきませんでしたが、過去帳によってあらたな事実がわかりました。同時に伊奈家のこの姫に対する思いの深さはどこから来るのか?という謎が深まりました。やはりこの姫には悲しい物語がつきまとっているとしか思えません。今回はここまでですが引き続き調査をしてまいります。もし、この件でご意見、推理、情報等がありましたら、下のコメント欄でもメールでもなんでも結構ですのでお寄せいただければ幸いです。
 
新井宿駅と地域まちづくり協議会
FAX048-281-9939(リカベル)
 
 
 
参考 浄土宗の戒名について
 
浄土宗の戒名は「院号」「誉号」「戒名」「位号」からなる。
「院号」は古くは貴人にのみ付けられていたが、今日では信仰心篤く、寺院や地域社会への貢献に優れた人達にも贈られている。
「誉号」は僧侶に限らず、五重相伝を受けた檀信徒に授与されたが、今日では受けていない人にも与えられるようになった。
「戒名」は仏教に帰依したものに付けられる名前で、本来は出家して得度者となった時に与えられていた。後には出家者に限らず在家の人々も仏門に帰依し授戒を受ければ授かるようになった。
「位号」は年齢や性別、信仰心の篤さなどによって付けられるが、中でも「禅定門」「禅定尼」の位号は法門に深く帰入した人に付けられる称号で、居士・大姉に次ぐ格式とされている。もともとは五重相伝の受者に限って与えられていたが、近年ではあまり見られなくなった。
 
 
 

2014年7月1日火曜日

第3回バスツアー「江戸散歩」下見―後編

15:00 永代橋

吉良邸から永代橋に向かう。
浪士たちが歩いた一ノ橋、万年橋を渡り、芭蕉記念館など立ち寄り永代橋の袂、ちくま味噌に着く。前に記念碑がありこう書いてあります

赤穂義士休息の地
 赤穂四十七士の一人大高五子葉は 俳人としても有名でありますが、ちくま味噌初代竹口作兵衛木浄とは其角 の門下として俳界の友でありました。
 元禄十五年十二月十四日討入本懐を 遂げた義士達が、永代橋へ差し掛るや、 あたかも当所乳熊屋味噌店上棟の 日に当り、作兵衛は一同を店に招き入れ甘酒粥を振る舞い労を犒らったのであります。大高源五は棟木に由来を認め、又看板を書き残し泉岳寺へ引き上げて行ったのであります。  昭和三十八年二月
  ちくま味噌十六代    竹口作兵衛識
         
ちくま味噌の赤穂浪士休息の碑

ちくま味噌の初代竹口作兵衛と四十七士の一人大高源吾は俳人宝井其角(たからいきかく)の門人でした。源吾は江戸では町人脇屋新兵衛を名乗っていたので、作兵衛は吉良邸討ち入りも四十七士に源吾がいることも知らなかったはず。一行の中に源吾を見つけた時は驚いたでしょうね

         
 永代橋(元禄11年、1698年伊奈忠順が架橋)

  
  なぜ伊奈忠順に永代橋の架橋を命じられたかというと、伊奈家は代々深川の開発を指導してきたからです。江戸東京博物館が発行する「えど友」には以下のように書いてあります。

 「伊奈家は深川については永代橋の架橋、深川漁師町の起立、木場町の設置、その他の多くの町々の起立、そして葛西用水の開削による新田開発等深川地区の形成・基盤整備についての指導的立場にありました。深川地区の開拓、新田開発を実際に担当したのは農民あるいは商人でしたが、その指導および管理を行ったのは関東郡代である伊奈家でした。」
 「また江戸の人口急増により江戸市街が急速に膨張し市街地の拡張が望まれてきて、明暦大火以降隅田川以東の本所・深川地区の干拓事業が本格化し、関東郡代である伊奈家の土木技術が駆使され開発が急速に進展し町の造成、新田開発が進んでいきました。」
 「伊奈家三代忠治により猟師町の開発がスタート、以後歴代の後継者が関東郡代としてその任に当りましたが、七代半左衛門忠順、八代半左衛門忠ただ逵みち、十代忠宥の時代(元録から明和の頃)が深川開発のピークであり、等」

(江戸東京博物館「えど友」NO64より)

もともと隅田川の東側、葛飾郡は関東郡代の支配地でしたが、江戸が拡大するにつれて開発が望まれました。そこで幕府は開発された土地を町地、寺社地、武家地にして区画し関東郡代支配から町奉行などの管轄に移しました。永代橋の架橋はこの一環でした。この永代橋をはじめ、富岡八幡宮の灯篭、玄信寺(伊奈忠順の前妻と伊奈忠逵(第8代)の墓がある)などがあり、つながりの深さを知ることができます。

富岡八幡宮にある伊奈忠宥(第10代)が奉納した対の灯篭。赤穂浪士たちも討ち入り前の12月2日、頼母子講と称して八幡前の茶屋に集合し、最後の打ち合わせを行った。

 


 永代橋から見る絶景。長さ110間(200m)幅3間余(6m)は当時最大級の橋。隅田川河口にあり、多数の船が通過するので満潮時でも3メートルの高さがありました。「西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総」と称されるほど見晴らしの良い場所であったと記録(『武江図説』)に残る。(ウィキペディア)映っているのは佃島の大川端リバーシティ21。

永代橋を渡り、泉岳寺に向かう。

  大石は途中、吉田兼亮・富森正因の両名を、討ち入りの口上書の写しを持って大目付(大名を監視する機関)仙石久尚のもとに出頭させました。また、泉岳寺に着くまでに唯一足軽の身分で参加した寺坂吉右衛門(池宮彰一郎の最後の忠臣蔵の主人公)が姿を消しています。これには諸説ありますが、内匠頭(たくみのかみ)の妻瑤泉院や広島に蟄居している内匠頭の弟の浅野大学に報告させるために大石が命じたというのが有力です。大石らが「寺坂は軽輩(身分が低いこと)なので構うことはない。」とか「不届き者である」と語っているのは寺坂に幕府の追手が掛からないようにするための配慮です。寺坂が広島に行ったことは確認されています。


16:00 泉岳寺
高輪泉岳寺に到着。
泉岳寺は曹洞宗のお寺で、浅野家の菩提寺。浅野家との縁は寛永18年(1641年)の大火で外桜田にあった寺院が焼失し、その時に徳川家光の命で毛利、浅野、朽木、丹羽、水谷の5大名が高輪に再建したのが始まりです。浅野内匠頭、瑤泉院、赤穂浪士達が眠っています。
         
 泉岳寺。写真は2月に行った時のもの

浪士たちは浅野内匠頭の墓前に上野介の首を供えると討ち入りの報告をし、一人づつ焼香しました。その後寺から粥のもてなしを受け幕府からの使者を待ちます。
四十七士の墓。


赤穂義士記念館。義士達の遺品や書簡、向かいには義士木像館があります。驚いたことに泉岳寺から吉良の首を受け取った吉良家家老の領収書があります。
大石内蔵助良雄の像。討ち入りの連判状を手にしている。

義士達は午後6時頃大目付仙石伯耆守の屋敷に移され、松平隠岐守、毛利甲斐守、水野監物、細川越中守の屋敷にそれぞれ預けられ、義士として厚遇を受けています。そして翌年元禄16年(1703年)2月4日に切腹を命じられ、それを従容として受け入れています。同日吉良家は領地召し上げとなり上野介の養子義周(よしちか)は信州に配流となりました。ここに2年に渡る復仇の物語は終わりました。浪士たちの遺骸はこの泉岳寺に埋葬されています。
 
 
  泉岳寺の南は品川宿で品川は伊奈家の支配地だったのでいくつか逸話があります。品川宿は東海道の江戸への出入り口で遊里としても有名で、1764年に特別に許可されて500人の遊女を置くことを許可されました。宿場としてはそれまで再三増員の願いを出していたのでこのことに大変感謝しました。そこで品川宿では8月7日にその決定をした道中奉行(五街道を取り締まる役人)の安藤弾正惟要(あんどうだんじょうこれとし)を描いた掛け軸をかけ、酒と赤飯を供えました。これを「弾正日待」と言います。そしてこの掛け軸には安藤の他に勘定頭と代官の名前も記されています。その代官というのが伊奈忠宥(第10代)です。品川の遊女増員の決定には伊奈家も関わっていたというのは意外ですね。
 また、伊奈忠逵(第8代)の時にはこの品川で天一坊事件を裁いています。大岡政談で有名な天一坊事件ですが、そのモデルとなったのはこの事件です。忠逵は時間をかけて慎重に取り調べて天一坊が将軍吉宗の御落胤というウソを暴き、この事件を解決しています。忠逵は在任中4度もお咎めを受けたので、今一つ評価が低いのですが、私はこの件も含めて優れた人物だったと思っています。
 それにしても関東郡代が道中奉行や町奉行など他の役所と職掌がかなり被っていたのですね。後年町奉行などと対立した経緯もこの広すぎる職掌が理由の一つだったと思います。
 
それはさておき、いちおう忠臣蔵の旅これで終わりです。
 

17:20 日の出桟橋
忠臣蔵の旅は終わりましたが、せっかくなので電車ではなく船で浅草まで行ってから帰ろうと思い水上バス乗り場がある日の出桟橋に行きました。
 日の出桟橋水上バス乗り場
 待合室にはカフェもあります。
 東京湾。見えるのは豊洲あたりか?
 こちらはレインボーブリッジとフジテレビ
 浅草行の水上バス
 船内。1,2階で売店もある
すれ違う大安宅船
 
水上バス。快適でした。1日中歩き通しだったので、ほぼ居眠りをしていました。
 
 18:00浅草
 水上バスを降りるとそこは浅草でした。隅田川の対岸にスカイツリーが。
 浅草寺、雷門。18時過ぎているのに物凄い人、人。ぼうっとしているとシャッター係を頼まれる。
 仲見世。外人がすごく多い。店が多すぎて見てるとなかなか前に進まない。仲見世以外にもいろんな通りがあって、どこに行ったらいいかわからない。ツアーではここによるとすれば1時間は見ないとダメでしょう。
腹が減っていましたが、迷いに迷って地下街にある立飲み屋風の店で焼きそばとハイボールを頼みました。ソースがつ~んと効いて下町の味!ハイボールが疲れた体に染みわたりました。
 
今回の下見でだいたいツアーの概要が出来ました。11月中頃予定です。あまり関東郡代伊奈氏の200年という内容ではないですが江戸を満喫できること間違いなし!こういうのもあっていいと思います。参加ご希望の方は10月ごろに応募の告知をします。今回も何卒よろしくお願いします。では。
 
*前編も参考にしてください
 
第3回バスツアー「江戸散歩」下見―前編
 
上のURLをクリックしてください