2014年7月1日火曜日

第3回バスツアー「江戸散歩」下見―後編

15:00 永代橋

吉良邸から永代橋に向かう。
浪士たちが歩いた一ノ橋、万年橋を渡り、芭蕉記念館など立ち寄り永代橋の袂、ちくま味噌に着く。前に記念碑がありこう書いてあります

赤穂義士休息の地
 赤穂四十七士の一人大高五子葉は 俳人としても有名でありますが、ちくま味噌初代竹口作兵衛木浄とは其角 の門下として俳界の友でありました。
 元禄十五年十二月十四日討入本懐を 遂げた義士達が、永代橋へ差し掛るや、 あたかも当所乳熊屋味噌店上棟の 日に当り、作兵衛は一同を店に招き入れ甘酒粥を振る舞い労を犒らったのであります。大高源五は棟木に由来を認め、又看板を書き残し泉岳寺へ引き上げて行ったのであります。  昭和三十八年二月
  ちくま味噌十六代    竹口作兵衛識
         
ちくま味噌の赤穂浪士休息の碑

ちくま味噌の初代竹口作兵衛と四十七士の一人大高源吾は俳人宝井其角(たからいきかく)の門人でした。源吾は江戸では町人脇屋新兵衛を名乗っていたので、作兵衛は吉良邸討ち入りも四十七士に源吾がいることも知らなかったはず。一行の中に源吾を見つけた時は驚いたでしょうね

         
 永代橋(元禄11年、1698年伊奈忠順が架橋)

  
  なぜ伊奈忠順に永代橋の架橋を命じられたかというと、伊奈家は代々深川の開発を指導してきたからです。江戸東京博物館が発行する「えど友」には以下のように書いてあります。

 「伊奈家は深川については永代橋の架橋、深川漁師町の起立、木場町の設置、その他の多くの町々の起立、そして葛西用水の開削による新田開発等深川地区の形成・基盤整備についての指導的立場にありました。深川地区の開拓、新田開発を実際に担当したのは農民あるいは商人でしたが、その指導および管理を行ったのは関東郡代である伊奈家でした。」
 「また江戸の人口急増により江戸市街が急速に膨張し市街地の拡張が望まれてきて、明暦大火以降隅田川以東の本所・深川地区の干拓事業が本格化し、関東郡代である伊奈家の土木技術が駆使され開発が急速に進展し町の造成、新田開発が進んでいきました。」
 「伊奈家三代忠治により猟師町の開発がスタート、以後歴代の後継者が関東郡代としてその任に当りましたが、七代半左衛門忠順、八代半左衛門忠ただ逵みち、十代忠宥の時代(元録から明和の頃)が深川開発のピークであり、等」

(江戸東京博物館「えど友」NO64より)

もともと隅田川の東側、葛飾郡は関東郡代の支配地でしたが、江戸が拡大するにつれて開発が望まれました。そこで幕府は開発された土地を町地、寺社地、武家地にして区画し関東郡代支配から町奉行などの管轄に移しました。永代橋の架橋はこの一環でした。この永代橋をはじめ、富岡八幡宮の灯篭、玄信寺(伊奈忠順の前妻と伊奈忠逵(第8代)の墓がある)などがあり、つながりの深さを知ることができます。

富岡八幡宮にある伊奈忠宥(第10代)が奉納した対の灯篭。赤穂浪士たちも討ち入り前の12月2日、頼母子講と称して八幡前の茶屋に集合し、最後の打ち合わせを行った。

 


 永代橋から見る絶景。長さ110間(200m)幅3間余(6m)は当時最大級の橋。隅田川河口にあり、多数の船が通過するので満潮時でも3メートルの高さがありました。「西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総」と称されるほど見晴らしの良い場所であったと記録(『武江図説』)に残る。(ウィキペディア)映っているのは佃島の大川端リバーシティ21。

永代橋を渡り、泉岳寺に向かう。

  大石は途中、吉田兼亮・富森正因の両名を、討ち入りの口上書の写しを持って大目付(大名を監視する機関)仙石久尚のもとに出頭させました。また、泉岳寺に着くまでに唯一足軽の身分で参加した寺坂吉右衛門(池宮彰一郎の最後の忠臣蔵の主人公)が姿を消しています。これには諸説ありますが、内匠頭(たくみのかみ)の妻瑤泉院や広島に蟄居している内匠頭の弟の浅野大学に報告させるために大石が命じたというのが有力です。大石らが「寺坂は軽輩(身分が低いこと)なので構うことはない。」とか「不届き者である」と語っているのは寺坂に幕府の追手が掛からないようにするための配慮です。寺坂が広島に行ったことは確認されています。


16:00 泉岳寺
高輪泉岳寺に到着。
泉岳寺は曹洞宗のお寺で、浅野家の菩提寺。浅野家との縁は寛永18年(1641年)の大火で外桜田にあった寺院が焼失し、その時に徳川家光の命で毛利、浅野、朽木、丹羽、水谷の5大名が高輪に再建したのが始まりです。浅野内匠頭、瑤泉院、赤穂浪士達が眠っています。
         
 泉岳寺。写真は2月に行った時のもの

浪士たちは浅野内匠頭の墓前に上野介の首を供えると討ち入りの報告をし、一人づつ焼香しました。その後寺から粥のもてなしを受け幕府からの使者を待ちます。
四十七士の墓。


赤穂義士記念館。義士達の遺品や書簡、向かいには義士木像館があります。驚いたことに泉岳寺から吉良の首を受け取った吉良家家老の領収書があります。
大石内蔵助良雄の像。討ち入りの連判状を手にしている。

義士達は午後6時頃大目付仙石伯耆守の屋敷に移され、松平隠岐守、毛利甲斐守、水野監物、細川越中守の屋敷にそれぞれ預けられ、義士として厚遇を受けています。そして翌年元禄16年(1703年)2月4日に切腹を命じられ、それを従容として受け入れています。同日吉良家は領地召し上げとなり上野介の養子義周(よしちか)は信州に配流となりました。ここに2年に渡る復仇の物語は終わりました。浪士たちの遺骸はこの泉岳寺に埋葬されています。
 
 
  泉岳寺の南は品川宿で品川は伊奈家の支配地だったのでいくつか逸話があります。品川宿は東海道の江戸への出入り口で遊里としても有名で、1764年に特別に許可されて500人の遊女を置くことを許可されました。宿場としてはそれまで再三増員の願いを出していたのでこのことに大変感謝しました。そこで品川宿では8月7日にその決定をした道中奉行(五街道を取り締まる役人)の安藤弾正惟要(あんどうだんじょうこれとし)を描いた掛け軸をかけ、酒と赤飯を供えました。これを「弾正日待」と言います。そしてこの掛け軸には安藤の他に勘定頭と代官の名前も記されています。その代官というのが伊奈忠宥(第10代)です。品川の遊女増員の決定には伊奈家も関わっていたというのは意外ですね。
 また、伊奈忠逵(第8代)の時にはこの品川で天一坊事件を裁いています。大岡政談で有名な天一坊事件ですが、そのモデルとなったのはこの事件です。忠逵は時間をかけて慎重に取り調べて天一坊が将軍吉宗の御落胤というウソを暴き、この事件を解決しています。忠逵は在任中4度もお咎めを受けたので、今一つ評価が低いのですが、私はこの件も含めて優れた人物だったと思っています。
 それにしても関東郡代が道中奉行や町奉行など他の役所と職掌がかなり被っていたのですね。後年町奉行などと対立した経緯もこの広すぎる職掌が理由の一つだったと思います。
 
それはさておき、いちおう忠臣蔵の旅これで終わりです。
 

17:20 日の出桟橋
忠臣蔵の旅は終わりましたが、せっかくなので電車ではなく船で浅草まで行ってから帰ろうと思い水上バス乗り場がある日の出桟橋に行きました。
 日の出桟橋水上バス乗り場
 待合室にはカフェもあります。
 東京湾。見えるのは豊洲あたりか?
 こちらはレインボーブリッジとフジテレビ
 浅草行の水上バス
 船内。1,2階で売店もある
すれ違う大安宅船
 
水上バス。快適でした。1日中歩き通しだったので、ほぼ居眠りをしていました。
 
 18:00浅草
 水上バスを降りるとそこは浅草でした。隅田川の対岸にスカイツリーが。
 浅草寺、雷門。18時過ぎているのに物凄い人、人。ぼうっとしているとシャッター係を頼まれる。
 仲見世。外人がすごく多い。店が多すぎて見てるとなかなか前に進まない。仲見世以外にもいろんな通りがあって、どこに行ったらいいかわからない。ツアーではここによるとすれば1時間は見ないとダメでしょう。
腹が減っていましたが、迷いに迷って地下街にある立飲み屋風の店で焼きそばとハイボールを頼みました。ソースがつ~んと効いて下町の味!ハイボールが疲れた体に染みわたりました。
 
今回の下見でだいたいツアーの概要が出来ました。11月中頃予定です。あまり関東郡代伊奈氏の200年という内容ではないですが江戸を満喫できること間違いなし!こういうのもあっていいと思います。参加ご希望の方は10月ごろに応募の告知をします。今回も何卒よろしくお願いします。では。
 
*前編も参考にしてください
 
第3回バスツアー「江戸散歩」下見―前編
 
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