2014年7月1日火曜日

第3回バスツアー「江戸散歩」下見-前編

     「関東郡代伊奈氏の200年第3回バスツアー」の下見に行ってきました。今回は調査団ではなくあくまで下見。今回のバスツアーは東京になりましたが、江戸での伊奈氏の業績はたくさんあっても史跡としては残っていません。そこで忠臣蔵舞台を辿りながら伊奈氏の業績を振り返ってみようということになりました。
  忠臣蔵は江戸時代で最も有名な事件で当時の武家社会に衝撃を与え、庶民にも浄瑠璃や歌舞伎を通じて永く語られています。そこに伊奈家は何も関わっていませんが、伊奈家の仕事が吉良義央(よしなか)や事件と少し因縁があるので、ツアーではそれをあきらかにして伊奈家の江戸での役割と同時代を解説しようという趣旨です。ですからこれまでのツアーとは若干違う江戸名所めぐり的なツアーになりますので、あらかじめご理解ください。

前置きはさておき。早速報告したいと思います。

6月21日8:00集合
新井宿駅に集合。いちおう会議で同行者を募集しましたがやはり誰も来ず。


一人上野に向かう。

9:00 上野寛永寺根本中堂
寛永寺根本中堂
 
最初の目的地、上野寛永寺に着く。東叡山寛永寺は元和2年(1628年)2代将軍秀忠が幕府のブレーンだった天台宗の僧、天海に上野の山を丸ごと寄進したのが始まりとされています。根本中堂は元禄11年(1698年)完成しました。寛永寺は上野公園はもとよりその周辺にも堂宇伽藍が立ち並び、徳川家の菩提寺として相応しい威容を誇っていました(30万坪)。残念ながら幕末の彰義隊戦争(1868年)で大半が焼失してしまい、この根本中堂も明治初期に川越の喜多院の本地堂が移築されたもので当時のものではありません。

豊国の浮世絵
 
 これがなぜ、忠臣蔵、ひいては伊奈家と関係あるかというと、この根本中堂にまつわる大火が関わっています。
元禄11年(1698年)9月6日。新橋南鍋町から出火し,強い南風のため遠く北方の千住まで延焼,大名屋敷83,旗本屋敷225,寺院232,町屋1万8703戸,326町を焼き死者3000人を出しました。この日、寛永寺根本中堂が落成して,東山天皇からの勅額が江戸に入ってきたことにちなみ,中堂火事,勅額火事(ちょくがくかじ)とも呼ばれています。
    じつはこの火事で吉良上野介義央は鍛冶橋の屋敷を焼失し、赤穂藩主浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)は大名火消として消防の指揮をとっていました。松の廊下の刃傷事件はその3年後に起こります。ちなみにこの根本中堂の建設とこの火事で大儲けしたのが材木商の紀伊国屋文左衛門でその額50万両(約500億円)だったそうです。すごいですね。
    そして伊奈家ですが、じつはこの根本中堂の余材をもって隅田川に永代橋を掛けました。紀文が巨額を儲けてなおかつ余材で110間(200m)の橋が架けられるんですから当時の根本中堂の規模の大きさがわかります。
    そして橋の完成の4年後に、この橋を赤穂浪士たちが吉良の首を掲げて渡ることになります。この根本中堂と大火は忠臣蔵の人々を含めいろんな人の運命に微妙に影響を与えていることから今回立ち寄ることにしました。結局吉良はこの火事で本所に屋敷替えされて赤穂浪士の襲撃を受けています。
彰義隊の慰霊碑
 
 
10:30 両国江戸東京博物館
 
上野を後にし両国に向かう。江戸東京博物館はツアーの目玉として予定しています。江戸を学ぶのには最高のスポットです。
 江戸博6F常設展。いきなり日本橋1/2スケールがお出迎え。すごい!
展示物は撮影OKの所もかなりあります。写真は歌舞伎の一場面。
政治、文化、生活。江戸東京のあらゆるものを網羅している。世界に誇る日本の文化。世界に誇る博物館。
 
特別展も充実していますが、それまで見ると1日かかってしまうので秋のツアーでは常設展のみ見学としようと思います。個人600円、団体だと480円。この内容だとすごく安いような気がします。
 
12:30 ちゃんこ江戸沢
毎回のツアーの悩みの種である昼食ですが、今回は両国と言えばちゃんこなのでさほど悩まなくてよいでしょう。両国でイタリアンを食べてもしょうがないのですから。
というわけでちゃんこ鍋のチェーン店「ちゃんこ江戸沢」に行ってきました。
 江戸沢総本店
 お目当ての満腹コースがお2人様からになっていたので豚ちゃんこランチにました。昼からちゃんこと生ビール。堪えられません!ちゃんこ激ウマでした。醤油の出汁うまい。また豚がうまかった。ここに決定です。

宴会席。40人ぐらいと言ったら2部屋の間の障子を開けて使うとのこと。
 
14:00 本所吉良邸
 ちゃんこ屋からほど近い吉良邸跡に徒歩で行く。
 本所松坂公園(吉良邸跡)。地元町会有志が広大な吉良邸の一画を公園とし都に寄付したもの。海鼠塀(なまこべい)を模した壁の中には吉良義央の座像や井戸があります。
吉良上野介義央の座像。元禄15年(1703年)12月14日、吉良はここで赤穂浪士の襲撃を受け討ち取られる。
 
  もともと吉良は鍛冶橋に屋敷を構えていましたが、先の勅額火事で焼失すると呉服橋に屋敷を再建しました。ところが3年後の元禄14年(1701年)3月14日の松の廊下刃傷事件で浅野家が断絶すると、吉良に恨みを持つ赤穂浪士たちが襲撃するとの噂が立ちました。同年8月19日、なぜか幕府は吉良に本所に移転を命じます。本所の屋敷は旗本の松平信望(のぶもち)という人が住んでいましたがそれをわざわざ移転させて吉良邸をそこに移しています。刃傷事件で浅野内匠頭が即日切腹、吉良にお咎めがなかったことから、片手落ちではないのか?という批判があり、この頃から幕府の吉良に対する態度が冷たくなっているのがわかります。結局吉良はここで襲撃されますが、江戸城の目の前にある鍛冶橋や呉服橋にあったら討ち入りはかなり難しかったし、それこそ将軍に弓引く輩として浪士達は討伐されていたと思います。
  隅田川から江戸川の間は伊奈氏の利根川東遷が始まるまでは利根川の支流が乱流する低湿地帯で水害の多い寒村でした。しかし利根川が東遷し、武蔵国東部の河川が整理されると干拓がしやすくなり市街地化する条件が整ってきました。3代伊奈忠治のころ深川猟師町を開発し以後南へ東へと開発され明暦の大火以降の江戸の防災の町割りや拡大する人口の重要な受け皿になっていきました。開発された市街地は本所奉行や町奉行に移管されていきましたが、それ以外の地域は伊奈氏改易までずっと関東郡代の支配地でした。
両国橋
 
  明暦3年(1657年)の大火*振袖火事は江戸府内を焼き尽くされ10万人に及ぶ死者を出しました。これを受け幕府は江戸の街の再編に取り組みます。道路の拡張、火除け地の設定、寺社の郊外への移転、武家屋敷の再編、新開地の開発、特に深川地域の埋め立て市街地化に重点が置かれました。また、おびただしい死者を出したのは幕府が防衛上の理由から隅田川に橋を掛けなかったため避難民が逃げ場を失ったことにあったので寛文元年(1661年)に両国橋を掛けました。
  赤穂浪士たちは吉良を打ち取った後、すぐそばの回向院で休息を取る予定でしたが、回向院は関わり合いになるのを恐れて門を開けませんでした。仕方なく両国橋の東詰で休息を取りながら上杉家の討手を待ちましたが、来る様子はありません。吉良邸跡にある説明版には旗本の服部彦七という人がここで浪士たちが橋を渡ることを役目上拒否したとありますが。どうやら大石は最初から両国橋を渡るつもりはなかったようです。というのは毎月1日と15日は大名・旗本の登城日になっていて、この両国橋を渡ると登城をする大名等とのトラブルになる可能性があると考えていたからです。泉岳寺の主君の墓前に吉良の首を供える前に無用なもめごとは避けなければならないのです。最も安全な移動手段は船ですが、結局歩いて泉岳寺に向かいます。そのまま隅田川を渡らず南下すれば永代橋があります。先に言ったように永代橋は元禄11年(1698年)に伊奈半左衛門忠順(7代)が架橋しました。この新しい橋が架かっていなければ赤穂浪士たちはかなりのリスクを冒して泉岳寺に向かわなければならなかったでしょう。

吉良邸から泉岳寺までの道のり。(東京時代MAP大江戸編―光村推古書院)*クリックして拡大してください。
 
   
 
   ひとつ疑問に思うのは吉良上野介の息子が藩主を務める上杉家がなぜ討手を差し向けなかったか?ということです。上杉家と言えば藩祖謙信以来武門の誉れ高き家柄。藩主の父が討たれて何もしなかったとなればご先祖の誇りも地に落ちるというところですが、実際にはもたもた準備している間に幕府から出兵禁止の使者が来てそれに従いました。そこにはあまり積極性が見られません。それには以下のような事情がありました。
  寛文4年(1664年)米沢藩第3代藩主上杉綱勝は跡継ぎがないまま急死します。当時は嗣子断絶の大名は改易(お取り潰し)になりますが、このときは保科正之(3代将軍家光の異母弟)の斡旋により綱勝の妹の夫である吉良上野介義央の生まれたばかりの長男三之介(4代上杉綱憲)を末期養子(急に願い出る養子。お家断絶回避の緊急避難的措置)にして改易を免れました。上杉家にとって吉良は恩人になりますが、その関係は良好ではありませんでした。というのも吉良家の普請や買掛金を負担させられたり毎年6,000石もの財政支援をさせられたからです。米沢藩の重臣たちはこのままでは吉良家に乗っ取られると嘆いていたそうです。ただでさえ末期養子のペナルティとして30万石の領地の半分を幕府に没収されたので藩の財政は急速に悪化していきました。討ち入り後の対応に関しては、幕府の命令に従うしかないのですが、武勇を誇る上杉家にしては少々手際が悪いように感じます。幕府の使者が来る前に急派して戦端を開いてしまうということもできたと思います。みすみす首を取られて泉岳寺まで凱旋を許すということが侮りの対象になることがわかっていたはずです。やはり上杉家の、特に重臣たちは吉良に対して冷めたものがあったと思います。
  上杉家が領地の半分の15万石を没収されたとき、その大半の12万石に当たる伊達郡信夫郡(福島県)を接収したのが伊奈忠克(ただかつ第4代)です。伊奈家頌徳碑には「寛文四 年( 1664 年)伊達・信夫両郡の監吏に兼補せられ、憲条(法律を)定め、賦役(労)を省き民その恵蒙る。」とあります。お役目とはいえ上杉家を気の毒に思ったことでしょう。ちなみにこの伊達郡信夫郡は忠克が代官の時代に江戸の豪商渡辺友意(わたなべとももち)に阿武隈川を開削させて遠く宮城県の荒浜まで舟路を開き、太平洋を南下して、銚子沖から利根川を通って江戸まで運ぶ年貢米の航路を開発させています。また、この二郡が天領になってから幕府は養蚕を奨励し、この地方は生糸の一大産地になりました。初代忠次(ただつぐ)が結城紬を再興したようにここにも伊奈家が絡んでいるかもしれませんね。
 
吉良邸をあとにして歩いて永代橋に向かう。
 
後編に続く。
第3回バスツアー「江戸散歩」下見―後編
 
 
 


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