2014年7月13日日曜日

龍神伝説の謎に挑むその2―関東郡代伊奈氏の200年

源長寺の伊奈家墓所にある謎の聖観音。左手に持つ蓮の花も沼を連想させる

 
*この記事は以前掲載していたものに一部事実誤認があったので、訂正して再掲載させていただいております。

前回の「龍神伝説の謎に挑む」の記事に対していろいろなご意見をいただきました。おもしろい。ロマンを感じる。不思議な話。もう少し手がかりがないのか?等々。
多くの人に興味を持っていただきました。同時に謎の解明を期待する声も多くあり、その後も調査しましたので報告させていただきます。残念ながら謎の解明とはいきませんが、新事実も明らかになりました。

前回の記事
関東郡代伊奈家の200年「龍神伝説の謎に挑む」
http://araijyuku.blogspot.jp/2014/03/blog-post_28.html
*上のURLをクリックしてください

水神祠

6月21日 前から気になっていた赤山陣屋二の丸にある水神祠を調査する。

赤山陣屋の水神祠

この水神様は文化財センターが管理しているので、お願いして特別に祠の中を見せてもらうことになりました。
見ての通りセメントで出来ているので、古いものではありません。たぶんこれは伝説に出てきた祠ではないと思いますが、でも、一度は見てみないとなぁ、と思って文化財センターの方に立ち会っていただき中を見せていただきました。

 祠の内部。蜂の巣と蜂の死骸だらけです。お厨子のようなものがありました。

しかし、お厨子の中は蜂の巣が巣食っていて、中の御神体もこの通りボロボロ。なにか文字が書いてあるようですが、まったくもって判読不能でした。

 文化財センターの人が言っていましたが、この祠は竜神の祠でなくて、伊奈家の作った祠ではないか?ということです。この祠のあるところは赤山陣屋のに二の丸の中。ここに村人たちが祠を建てられるはずもなく。伊奈氏が建てた祠を最近になって誰かがセメントで作り直したものと思われます。ここは北の沼の畔なので伊奈氏が水神様を祀っていたとかそんなところでしょうか?木札の文字がわかれば何か解ったかもしれないので残念です。蜂の奴、、、。

せっかく文化財センターの人まで来てもらって、何の成果もなかったのですが。では龍神を祀ったという祠はどこにあるのでしょうか?沼があったころ、沼の周りには石神村と立野村がありました。どちらかにあったと思うのですがそれらしきものがありません。私は沼の西の丘の上に建つ稲荷社が怪しいと思っているんですが、ここには江戸後期に建てられた石碑があるだけで万治年間や寛文年間あたりの遺跡はありませんでした。石神村の村社(鎮守様)は122号線の昭和シェル石油の裏にある稲荷神社ですが、この稲荷社もなかなか立派なのでここも石神村の村社かなと思っていましたが村社は一つしかないとのことなので、もしや?と思っていました。もともとここが龍神様で、その後稲荷社になったとは考えられないかとも思いますが、その痕跡は見当たりません。でもここが龍神祠だとスッキリするんですが。誰かここの由来を教えてください。
沼を見下ろす稲荷社。ここから北沼を一望できる

伊奈家過去帳

同日 源長寺ご住職から話をうかがう

伊奈氏菩提寺 川口市赤山の周光山源長寺
 
 突然伺いましたが、住職は快く話を聞いてくれました。なんでも少し前同じく龍神伝説と石仏の話をしに来た人がいるらしく、私の他にも興味を持っている人がいてうれしくなりました。住職は話を聞くと特別に伊奈家の過去帳を確認してくれました。その過去帳は延享元年(1774年)10月に第12代だか13代の住職が改訂したものだそうです。あの聖観音の石仏は延享元年11月建立ですのでそのひと月前ということになります。ん?
 
石仏に彫られている戒名と命日
*クリックして拡大するとよくわかります
 
過去帳の中に石仏の「雲晴院殿叡誉妙喜大娘」の戒名があるかドキドキしましたが、ちゃんと載っていたそうです。
 
5日のページにこう書いてあるそうです。
 
「雲晴院殿歓誉妙喜大姉
定弐(式?)法事
万治二年二月五日赤山源長寺葬
 
あれ?戒名がちょっと違うぞ。
 
石仏の戒名は
「雲晴院殿叡誉妙喜大娘
 
雲晴院殿と妙喜は合ってる。
叡誉(えいよ)が歓誉(かんよ)になり、大娘(だいじょう)が大姉(だいし)になってる。
これはどういうことだろうか?
 
*あらためて石仏を確認したところこの部分。ちゃんと「歓誉妙喜大姉」になっていました。なかなか読みづらく、誤って認識してしまいました。お詫びして訂正いたします。
 
 
 じつはこの人の戒名は過去帳を改訂したときに戒名変更されていて、元々の戒名が書かれており、それは。
 
「妙喜信女」
といいます。
 
また、その下に
「忠克妾家女」「万治2年2月」
とあるそうです。
 
 この人は4代目忠克(ただかつ)の妾の家の女ということです。(やっぱり)
 この「妙喜信女」を元に当時の住職は新たに戒名をつけたようです。
 「妙喜信女」の下に「忠克妾家女」とありますが、名前は書いていません。他のページには妾とか妾家と書いた後に名前が書いてある人が多いとのですが、この人はないそうです。
 
  この人は4代目伊奈忠克の妾の娘で、妙喜(よく笑うとか笑顔が可愛いというイメージだろうか?)というのが伊奈忠逵・忠辰(8代・9代)が抱いていたイメージだったことがわかります。
 
 
 
  



聖観音石仏の後ろに彫られた建立年月と伊奈忠逵、忠辰の名前
 
  
 
85年後の供養
 
 今のご住職は、この戒名変更で一番疑問に思うのは院殿号がつけられたことだと言います。伊奈家の過去帳で院殿号が付くのは当主の家族だけ。同じ妾でもついていない人もいる。まして戒名を変更して院殿号がつけられるというのはこの過去帳には他にありません。つまり、この過去帳はこの「妙喜信女」に院殿号を与える、また、石仏建立に合わせて改訂されたものだと思えます。
 
寛保4年(1744年)春、北の沼があった赤芝新田の検地をおこなう。
改元して
延享元年(1744年)10月、伊奈家過去帳を源長寺に改訂させる。
延享元年(1744年)11月、聖観音石仏建立、頌徳碑隣に安置する。
 
石仏に忠辰、忠逵と連名であるところから石仏建立は忠辰の発願だったのではないかと思います。忠逵の発願なら忠辰と連盟にしないはずです。寛保4年の検地は忠辰が当主の名代として北の沼のあった赤芝新田に赴き、そこで85年前に亡くなった(失踪した?)姫のことを強く想起させる出来事があったのではないでしょうか?そこで忠逵と相談の上供養しようということになった。この頃は伊奈家当主が赤山に来ることはほとんどなかったことを考えると忠辰、忠逵の連名の理由は忠辰がここに来てそうしようと思ったから、と思われます。このとき忠辰40歳、忠逵55歳。2年前に寛保の大水害に見舞われ、復旧工事に尽力し、前年には宝永噴火の被災地の支配をようやく終えるなど、数々の難事を越えながらも、猶前途に困難が予想される時期でした。彼らは石仏にどんな思いを込めたのでしょうか?
 
伊奈家頌徳碑の隣に立つ聖観音石仏
 
 
 4代目伊奈忠克の妾の娘で、妙喜(よく笑うとか笑顔が可愛いというイメージだろうか?)な姫。
 上記のような姫のことが伊奈家では伝えられていた。そして85年経って突然その姫のことを思い起こさせる出来事があった。そこで忠逵・忠辰は最大級の扱いで心を込めてその姫を供養した。龍神伝説があろうとなかろうとこれは事実です。
 
今回の調査では龍神伝説と石仏を結ぶ証拠は出てきませんでしたが、過去帳によってあらたな事実がわかりました。同時に伊奈家のこの姫に対する思いの深さはどこから来るのか?という謎が深まりました。やはりこの姫には悲しい物語がつきまとっているとしか思えません。今回はここまでですが引き続き調査をしてまいります。もし、この件でご意見、推理、情報等がありましたら、下のコメント欄でもメールでもなんでも結構ですのでお寄せいただければ幸いです。
 
新井宿駅と地域まちづくり協議会
FAX048-281-9939(リカベル)
 
 
 
参考 浄土宗の戒名について
 
浄土宗の戒名は「院号」「誉号」「戒名」「位号」からなる。
「院号」は古くは貴人にのみ付けられていたが、今日では信仰心篤く、寺院や地域社会への貢献に優れた人達にも贈られている。
「誉号」は僧侶に限らず、五重相伝を受けた檀信徒に授与されたが、今日では受けていない人にも与えられるようになった。
「戒名」は仏教に帰依したものに付けられる名前で、本来は出家して得度者となった時に与えられていた。後には出家者に限らず在家の人々も仏門に帰依し授戒を受ければ授かるようになった。
「位号」は年齢や性別、信仰心の篤さなどによって付けられるが、中でも「禅定門」「禅定尼」の位号は法門に深く帰入した人に付けられる称号で、居士・大姉に次ぐ格式とされている。もともとは五重相伝の受者に限って与えられていたが、近年ではあまり見られなくなった。
 
 
 

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