2014年9月15日月曜日

富士山信仰と小谷三志展

 「富士山信仰と小谷三志展」
 
期間 10月1日~11月30日
場所 川口市立文化財センター分館郷土資料館
    (旧鳩ヶ谷郷土資料館)
    〒334-0002川口市鳩ヶ谷本町2-1-22 
    TEL048-283-3552
入館料 一般100円、小・中学生50円



昨年6月に富士山がユネスコの世界文化遺産に登録されました。正式な登録名は「富士山―信仰の対象と芸術の源泉」です。すなわち、霊山として古代より人々の信仰を集め、秀麗な山容により、聖俗にわたる多くの絵画を生み出してきた歴史が評価されたのです。
本市における庶民信仰を振り返ってみても、富士山信仰は重要な意味を持っています。国指定重要有形文化財の「木曽呂の富士塚」、鳩ヶ谷宿に生まれ、富士山信仰を元に実践道徳の普及に尽力した小谷三志の関係資料、富士講社の人たちが残した富士登山の記録をはじめ、富士山信仰に関わる文化財が多数存在します。それらを紹介しながら、川口における富士山信仰の歴史を振り返る展示会を開催します。

小谷三志は生涯で161回も富士山に登ったそうです。すごい体力です。また、女人禁制の富士山に高山たつという女性信徒を連れ、はじめて女性の登頂を成功させました。小谷三志の墓は地蔵院にあります。



内容~川口から富士山をめざした人たち~

1、富士山信仰の歴史
2、庶民の富士山信仰~富士講~
3、小谷三志と不二道
4、川口から富士山へ

これを機会に川口市民と富士山の関わりを知りましょう。

2014年9月10日水曜日

将軍の日光社参と伊奈氏

11月9日に第2回日光御成道まつりが行われますが、その前にちょっと注目しているのがこれ!
川口商工会議所のゆるきゃら「御成姫」ちゃん

先月デビューした御成姫ちゃん。御成姫と言えば昨年11月にコンテストで選ばれた6人の御成姫が有名ですが、同じ名前でゆるきゃらが誕生したようです。さしずめきゅぽらんの彼女役といったところでしょうか?きゅぽらんといっしょに各種イベントに参加して忙しそうです。
ところでこの御成姫ちゃんのプロフィールですが。

龍神伝説のあるお姫様。昔、川口市の一部を治めていた伊奈家の姫
おてんばで良く笑い、笑顔のかわいい子。趣味は街歩きとおいしいものを見つけること。お祭りが大好きな12才。」


なんと!御成姫ちゃんはあの龍神伝説の姫さまだった!

*詳しくは当会ブログ
龍神伝説の謎に挑む
http://araijyuku.blogspot.jp/2014/03/blog-post_28.html

これは応援せねばなるまい。まずはゆるきゃらグランプリ2014に投票を!それから9月下旬に缶バッジ(100円)も出るからよろしくね。

*ゆるきゃらグランプリオフィシャルウェブサイト
http://www.yurugp.jp/vote/detail.php?id=00002514

それはさておき。御成道まつりも2回目ということで、今後も定着していくとなればそもそも御成道とは何か?日光社参と伊奈氏の関係は?などを明らかにしていきたいと思います。知れば御成道まつりも2倍楽しくなるはずです。

日光御成道とは?

御成道全図。*クリックして拡大してください

「デジタルガイドブックようこそ川口」によると

日光御成道(にっこうおなりみち)は、本郷追分(東京都文京区)から、幸手宿(埼玉県幸手市)の手前で日光街道に合流するまでの12里30町(約48km)の街道です。
もともとは鎌倉時代の奥州へ通じる幹線道路「鎌倉街道中道(かまくらかいどうなかつみち)」でした。
時代は移り慶長5年(1600年)、この道を北上して上杉征伐へ向かった徳川家康は、小山宿(栃木県小山市)で石田三成挙兵を知り、直ちに引き返して関ヶ原の合戦で勝利、やがて征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府を開くのです。
家康は、その遺言により日光東照宮に祀られました。以来、歴代将軍の日光社参が幕府の大切な行事となります。
そのための特別な道が「日光御成道」なのです。
天下取りの戦に勝利する始まりの道、縁起の良い道である「日光御成道」。川口宿、鳩ヶ谷宿の名残を“御成道さんぽ”で訪ねてみませんか。
とあります。

つまり日光御成道とは徳川将軍が日光東照宮にお参りするためだけに作られた専用道路だったのです。
鳩ヶ谷本町にある御成坂公園


日光社参の様子がモザイク画で描かれている

日光社参のようす

日光社参は徳川家康の祥月命日である4月17日(旧暦)に行われました。4月13日に江戸城を立ち、岩槻、古河、宇都宮と泊まり、16日に日光入り。17日に東照宮に詣でて、18日に同様の行程で帰途につきました。吉宗の社参では供奉の家臣13万3千人、人足22万8千人、馬匹30万5千匹と、途方もない規模の行列だったようです。なにしろ先頭が夜中の零時に出発して最後尾は朝の10時に江戸城を出るという長さだったので、沿道の村人たちは目を丸くしたことでしょう。社参は莫大な費用(20万両)が掛かるので頻繁に行っていたわけではなく、江戸時代を通じて17回だったそうです。

日光社参と伊奈家

日光社参のとき伊奈家は何をしていたのか?
じつは伊奈家の当主はこの行列には加わっていません。伊奈家は日光社参のときは裏方を一手に引き受けていたので、もっぱら行列のサポートと、川口から栗橋までの将軍の接待役に徹することになります。将軍の日光社参が決まると伊奈家当主は勘定奉行の支配から外れて老中の直接支配下にはいります。そのときに与えられる役職は勘定吟味役首座とか勘定奉行と同列ぐらいの立場に立ちます。なぜそうなるのかというと、伊奈家が社参行列のための人足や馬を関東一円から調達するからです。上記のような規模の大徴収を行うのに勘定奉行の下部組織では都合が悪いのです。関東の天領、私領関係なく号令するのにただの代官ではだめだということです。また、関東において、伊奈家でなければ農村の反発が大きい大規模な人馬の調達と煩雑な業務が遂行できなかったのです。
関東郡代伊奈家は通常は勘定奉行の下部組織ですが、災害復旧とか一揆の収拾とか、その他関東一円にかかわることにおいては伊奈家の能力・実力に頼らざるを得ず、それゆえ臨時に老中の直接支配(町奉行や勘定奉行と同列)に昇進するのです。幕府機構から大きく逸脱した実力を持つ伊奈家は、名目上は他の代官、郡代と一緒ですが、実質は関東長官という、ほかに比肩しようのない大きく特殊な官僚家だったのです。結局扱いに苦慮した幕府は、のちに伊奈家改易を機に関東郡代そのものを廃止してしまうことになります。
川口の渡し

岩淵―川口間は普段は荒川を渡し船で渡りますが、社参のときは仮の橋を掛け行列を渡します。このとき伊奈家当主は橋の上で将軍に「蓬莱の御盃台」を献上するのが習わしだったそうです。蓬莱というのは中国の蓬莱山で、その山の形をした盃台を献上したということでしょう。それに対し将軍からは伊奈家当主および嫡子に時服(じふく)や黄金を下賜しています。あたかも関東長官としてここからは当家がご案内致します。という儀式のようです。
盃台。盃台とは三三九度の盃が載ってるような台のこと。蓬莱の御盃台とは、要は山形の台のことです。御成道まつりではぜひこの儀式を再現してもらいたいものです。

実際にここから錫杖寺に案内して将軍に昼餉(昼飯)をとらせ、それから岩槻を経て栗橋で利根川を渡るまでの接待を務めている。それ以降日光までの接待は古河藩や宇都宮藩が当たりましたが、往復の人馬の手配はあくまで伊奈家の担当でした。岩槻藩主は錫杖寺で将軍を出迎えるとすぐさま岩槻城に引き返し将軍を待ったそうです。ちなみに伊奈氏研究の大家、小澤正弘氏によると赤山に陣屋を築いたことは将軍の日光社参をサポートする意味もあったといいます。
赤山陣屋のお堀


11月9日、盛大な行列を見ながら、往時の歴史に思いを馳せるのも御成道まつりの楽しみの一つです。では。

2014年9月3日水曜日

柿渋つくり2014その2

9月2日(火)。早いもので柿渋のもろみを作ってから2週間がたちました。
柿渋小屋の所有者(当会会長)によると、発酵が順調に進んでいるとのこと。そろそろ頃合いということで〝搾り″をすることにしました。
 9時に柿渋小屋に集合。この日もまた暑かった。
 まず、もろみを小屋から引っ張り出す。今回初の試みの甘柿のもろみ。腐ってはいないが柿の甘い匂いとツ~ンとくる酸っぱい匂い。乳白色で渋なのか酒なのか酢なのか?何ができるかわからない。とにかく絞ってみる。
長い板を敷き、大きなたらいを載せ、たらいの中に木の台を置き、その上にもろみを入れた出しこし袋を載せて絞る。しかし、人力だと上に載っても何をしてもたいして絞れない。そこで!

ビカビカビカ!
箱ジャッキ~
テッテケテッテ、テッテケテッテッテ~
(ドラえもんのポケットから何か出てきたことを想像してください。)
 会長が小屋から引っ張り出してきたのが「箱ジャッキ」。おもに建築現場で使う道具で何トンもの物を持ち上げることができるという優れもの。それだけに20キロぐらいあります。
どうやって使うかというと。まず出しこし袋の上に板を置き、その上に箱ジャッキをズシンとのせる。次に箱ジャッキの上にさらに長い板を載せ、写真のように上と下の板にロープを渡して縛る。そしてギリギリギリとレバーを回す。そうです。このジャッキは不可逆式のギアで回す仕組みなのです。これで楽勝で絞れました。回すたびにブシャーっと汁が出てきます。

  豆柿も搾ります。こんにゃくみたいな色。今回も柿の種類、使用する水(水道水か井戸水か見沼代用水の水)で分けて作っています。その組み合わせで渋の出来が違ってきます。
 何度も何度もギリギリ、ブシャーします。しぼったあとのカスもまた水につけて発酵させて渋を採ります。これを二番渋といいます。
 絞りが終わって、しぼりたての渋を試しにすげ笠に塗ってみることにしました。効果があればしぼりたてでも渋として使えるということです。
草木染部と助っ人の方々。今回はしぼりたての渋をもらっていきました。でもそれ使えるかどうかわかりませんよ。

 というわけで幻の赤山渋の復活はまだ道半ば。製法の確立には至っていませんが、毎年毎年こうやって少しずつアプローチしていきます。いつか確たる製法ができればそこから大量生産して、染め物、渋紙、塗料、石鹸、歯磨き粉などの用途実験を行い。最終的に製品化の道を開きたいなと思います。そこまで行って復活という言葉を使いたいと思います。まだまだ道は遠いですがこれからも頑張ってまいります。