2014年12月10日水曜日

龍神伝説の謎に挑むその3-関東郡代伊奈氏の200年

 

龍神伝説新展開!
 あれから調査が行き詰まっていたのですが、ふとしたきっかけから有力な情報提供があったので謎の解明が一気に進みました。さて、今回は何が明らかになるでしょうか?

*過去の記事
龍神で説の謎に挑むその1
http://araijyuku.blogspot.jp/2014/03/blog-post_28.html

龍神伝説の謎に挑むその2
http://araijyuku.blogspot.jp/2014/07/blog-post_13.html


 
ちょっと話がそれますが
安行には蛇にまつわる話が2つあります。そのひとつ。

十三段坂の伝説
 「赤芝新田が沼地であったころのこと。伊奈氏に仕る藤田某が、ある夜この沼で釣りをしていました。すると水面に小さい蛇が現れて、釣り糸のウキにじゃれつきます。しばらくして糸から竿をつたって竿を持つ親指をなめはじめました。薄気味悪くなり、小刀を抜いて蛇を切り捨てたところ蛇はそのまま水中に沈んで消えました。
 翌朝気にかかり沼まで行ってみると、沼の水は赤く染まり、水面に死んだ大蛇が浮かんでいました。
大蛇を引き上げ切り刻むと、なんと馬3頭分の荷になりました。これを背にした三頭の馬を引いて登った坂が「竜三駄坂」で、いつの間にか「十三段坂」と呼ばれました。後日、ある男が大蛇の頭蓋骨を貰い受け祀ったのが、安行領家の弁財天であると伝えられています。」


弁財天とは興禅院裏のふるさとの森の中の放生池という湧水の池の前にあります。創建は明らかではありませんが、寛文年間(1661~1672)頃ではないかと言われています。
興禅院にある弁財天。蛇がとぐろを巻いている。蛇は弁財天の使いといわれており、また、中世以降流行した宇賀神弁財天は人頭蛇身だといいます。これはどちらなのかわかりません。弁天は元々水の神、宇賀神は五穀豊穣の神で両者が習合したのが宇賀神弁財天です。
興禅院は伊奈家の重臣(付家老)冨田氏3代目資乗(すけのり)が中興開基(再建)しました。写真は冨田氏の墓所。このときなぜか予報にはない雨が降り始める。
 
 もう一つは
 
安行原の蛇つくり
 「この祭は、毎年5月24日に行われ、五穀豊穣・天下太平・無病息災なども祈願するため、長さ10メートルの蛇をつくることから始まる。
午後3時頃、出船のドラに似た鐘の音を合図に安行原のうち、清水、半縄、向原、中郷の四つの字の村人が藁(わら)をもち集まってくる。
先ず、この一年間欅(けやき)の大木につけられていた蛇をおろし、次に各人がその蛇をみながらそれぞれ協力して昨年と同様な蛇のかたちを作り上げていく。大蛇の頭部は、木の枝で枠をつくってこれに藁を組み合わせたものを二組み作り、それらを重ね合わせて片方が上下に開くようにする。これが大蛇の口であり、その中に舌をつけ、密蔵院の住職によって書かれた祈願文をしっかりと結びつけ、耳、鼻、ひげ等が順次編まれて、これらを所定のところにつけて蛇の頭ができあがる。
次に、胴は藁をねじりながら三つ編みにして約十メートルの長さに造り、最後に頭や胴等が全て組み合わされて蛇造りが終わる。
出来上がると、大欅の股のところに頭を、胴を幹に巻き付けて安置し、百万遍の行事を行って、この祭は終わる。」この行事は300年前頃から始まったと言われている。
 
道の駅樹里安にある同じ蛇
蛇が載せられる大ケヤキ
 
 この2つが関係あるのか?また、龍神伝説に関係あるのか?と言われるとわからないとしか言えませんが、この辺りには蛇にまつわる伝説、水の神弁財天への信仰が色濃く残っているということです。
 
これを踏まえて寄せられた情報を紹介します。これは昭和48年3月の「川口史林」第10号に寄稿されたものです。
 
忠克の蛇伝説
 「伊奈3代の主、半左衛門忠克公は大の釣り好きであった。くりぬき船でカヌー様の朱塗りの小舟に乗っては、新町口よりやや北寄りの方向を目指して堀水を漕ぎ渡り、釣りの跡はちょうど向こう岸にあった一軒の茶屋(前回掲載の稲荷神社、茶屋稲荷と言われているそうです)へ立ち寄って閑雲野鶴、しばしの時を費やすのを日課のようにしていた。茶屋の周囲は一面の山ツツジが生茂り、季節ともなると開花の壮観はえに言われぬものであった。
 
沼の西側の丘に建つ稲荷神社。かつては茶屋で、茶屋稲荷と言われたことがわかりました。
 
 或る時、例によって彼は朱船を漕ぎだし、釣り糸を垂れていた。と、どこからともなく一匹の蛇がちょろちょろと泳ぎ来て、船べりを二,三度嘗めまわし、離れては再度近づいて嘗めまわしているのに気付いた。その日はさして気には留めなかったが、そんなことが再三再四にわたるので、とうとう堪りかねた半左衛門はある時小柄を抜いて小蛇の急所とおぼしきあたりを一気に刺し通した。すると不思議、鏡のような水面はにわかに様相を一変し、刻々と逆巻く怒涛と化していった。肝をつぶした半左衛門は波に翻弄される小舟の中でいかんともなしがたく、突如襲い来たった大波は木の葉を返すがごとく小舟を逆転させた。半左衛門はほうほうのていで元の岸へ泳ぎ着き、命からがら城中に戻ったが、日ごろ愛用の朱船は波にのまれたか、跡形もなかった。翌日家臣に見に行かせたところ蛇の死骸を確認したとも伝えられている。
 歳月は幾度か変遷し、忠尊の代に、上の勘気に触れて永年の職を辞するのやむなきに至った。館は取り壊し、堀水は全部排出してしまうようにとの事。水の引いた堀底に延々と横たわる一連の蛇の骨が発見され、さらにやや窪みをなした所に丸木の船が見出された。かつて半左衛門が刺殺した小蛇はこの大蛇の化身だったということになった。これを人は龍神と呼び、特に雌龍神という古老もあるが定かではない。
 蛇骨は車に積まれ、幾度も急な斜面上り下りして搬出された。斜面はわだちの跡も踏み固められて狭い道路状を呈し、搬出数が通算13車であったことにちなみ、十三駄坂と呼ばれるようになった。(現在は十三段坂と呼ばれている)水のなくなった堀は次第に土砂で埋没し、朱船もその下となったがわずかに上部に窪地を残し、雨水がそこに溜まった。」
 
 
水神祠、十三駄坂、茶屋稲荷の位置関係 。あとで述べますが、十三駄坂は実在しました。
 
 
まだ続きがありますが、ひとまず置きます。
 
上記の寄稿の話が姫の龍神伝説と十三段坂の元になったのかどうかはわかりません。2つの伝説はこの話が分かれてそれぞれ違う要素が入った話に変わっています。ちょっと整理しますと
 
主人公
(忠克の蛇伝説)伊奈半左衛門忠克(第四代)

(龍神伝説)伊奈の姫
(十三段坂)伊奈家家臣藤田某
 
船遊び、釣り
(忠克の蛇伝説)伊奈半左衛門忠克
(龍神伝説)伊奈の姫ー舟遊び
(十三段坂)藤田ー釣り
 
場所
(忠克の蛇伝説)北の沼
(龍神伝説)北の沼
(十三段坂)北の沼
 
時期
(忠克の蛇伝説)忠克の代、伊奈家改易後
(龍神伝説)不明
(十三段坂)不明
 
 このように比較しますとよくわかりますが、蛇伝説の忠克の身に起こったことが伊奈の姫と藤田の身に起こっています。どうして混じったのかわかりませんが、伊奈の姫、藤田それぞれにまた別個の伝説が存在するかもしれません。もしそれがわかれば大きく真相に近づけますが、今のところ確認できません。
 
 この蛇伝説の話で最も重要なのが、時期がはっきり書いてあるということです。龍神伝説、十三段坂ともに時期が不明だったのですが、異常現象が忠克の代(1653-1665年)、大蛇の骨が伊奈家改易後(1792年)と明確に記されています。また、沼や堀、茶屋などの位置関係が正確で、今も確認できるということです。*上記画像参照
 「龍神伝説の謎に挑むその1」ではその時期を
代官を支配地から江戸詰を義務付けられる前。赤芝新田の開発が始まる前(1714)。そして伊奈氏の関東開発がまだ盛んだったころと推測し、忠克の代としましたが、ここでははっきりと忠克と出ています。この忠克の蛇伝説には伊奈の姫は出てきませんが、例の源長寺の聖観音石仏(雲晴院殿歓誉妙喜大姉)は伊奈忠克の妾の娘だと確認されましたので、やはり龍神伝説の姫と聖観音石仏は関係があると思います。
  
 
  また、この忠克の蛇伝説が元になって安行の蛇信仰が始まったのではないか?と思えるのです。時系列を整理しますと。
 
伊奈忠克の遭難*在職期間(1653-1665年)
冨田氏の興禅院中興開基*寛文年間と思われる
興禅院弁財天建立時期(1661-1672年)寛文年間
安行原の蛇つくり(1700年頃から)
大蛇の骨発見(1792年)
男が弁財天に頭骨を奉納する
 
伊奈忠克の件が赤山領下で噂になり、寛文年間に弁財天が建立され弁天信仰が流行する。ほどなく安行原で蛇つくりが始まる。そして赤山陣屋破却後に大蛇の骨が発見され、それをある男が弁財天に納めた。これはまあ、あくまで想像ですが。
 
五豊龍神
二の丸の水神祠。 
 
まだ忠克の蛇伝説の話には続きがあります。
  
 
  「時代は下って伊奈家改易後。その名跡を惜しまれて、忠克の弟忠重の子孫、忠盈(ただみつ)が1千石の小普請として相続した。それから五代目の伊奈忠勝氏と弟の隋吉氏はともに鳩ヶ谷高等小学校を卒業し、それぞれ東京に移り住んだが、忠勝氏は昭和七年に没し、そして、その弟の伊奈隋吉氏は兄の死後病臥し、5年間というもの悶々として病に苦しんでいた。兄亡きあと代を継ぐことも叶わず、兄も父もその父もほとんど五十を越えずして急逝している。自分ももう五十に近い、死期も近かろうと悲嘆し、日ごとに衰弱していった。極度の神経衰弱に陥りいずれの大学の名医もさじを投げてなすすべがない。何か精神的なより処を与えないことには命に関わると言われる始末。
  これに同情した兄弟の知古である鳩ヶ谷のY氏は、諸方を飛び回って易を立てるなどして、隋吉の病が先代の者が殺した龍神の祟りであると聞きこんだ。そして多少神道の心得のあった赤芝新田のS氏を訪ね、伊奈家の祈祷方を依頼した。S氏は朱船の沈んだと言われる跡の池水を汲んでY氏に託し、毎日五時に起床し池水を一滴垂らして冷水摩擦するよう指示した。するとみるみる快方に向かった。快癒した隋吉はS氏を訪ね、どこかに御堂を建てて龍神の霊を安置したいと申し出た。そして伊奈家の出資で朱船が沈んでいると伝えられる小池の前に石の堂をたてて龍神の御霊を封じ、内に神体を安置し「五豊龍神」と名付けた。時に昭和15年12月23日のことである。」
 
 
 なんと、二の丸の水神祠は伊奈家の末裔が忠克の蛇伝説に基づいて建立したとのことです。しかもその場所は伝説の朱船が沈んでいた場所だったのです。
 
不思議の池と十三段坂
 先日、この寄稿をしたS氏を訪ねました。S氏は歴史バスツアーに参加されていて、配布された龍神伝説の資料を見て僕にこの五豊龍神の寄稿文のコピーを送ってくれました。
 
 じつはS氏は隋吉氏に治療法を指示したS氏の御子息で、子供のころは五豊龍神の年末の御祓いなどを手伝わされていたそうです。S氏宅で伊奈隋吉氏からの御礼状の写し、建立の時に唱えた祝詞、その他貴重な資料を見せていただいたのみならず、伊奈家に関する分厚い資料をお貸ししていただきました。そしてS氏の案内で祠に行き、朱船が沈んでいたとされる「不思議の池」の場所を教えていただきました。その池は今は遊歩道の下にあります。
 
祠前の不思議の池があった場所に立つS氏。大きさはせいぜい2mぐらいとのこと。この池をかき混ぜると必ず雨が降ったそうで、大旱魃の時雨乞いをして効があったと言います。そして今日も雨。

そしてこれが13段坂(13駄坂)。右にあるのは外郭環状線。下ると北の沼に至る。S氏が子供のころは傍に馬頭観音があったというので、公道(村道)だったということか。沼から何を引き上げ、どこに運んだのか?
 
 伝説の中にある茶屋(稲荷神社)、朱船が沈んでいた場所、そして大蛇の遺骸を運んだ13段坂が実在したとは驚きました。実際に忠克の遭難、竜の出土などがあったとは思いませんが、姫の龍神伝説に比べ忠克の蛇伝説の方が時期や場所がはっきりしているので、こちらが姫の竜神伝説の元になったのだと思います。少なくとも昭和15年の段階では龍神伝説とはこのことを言ったのではないでしょうか?そして、その後姫の失踪が加えられた。
 
伝説の姫と聖観音
 
伊奈家菩提寺川口市赤山源長寺の謎の聖観音石仏
 
 姫の龍神伝説の成立が昭和15年以降だとしても、姫が架空の存在とは思えない。なぜなら、聖観音の「雲晴院殿歓誉妙喜大姉」は忠克の娘で、忠克の在職期間中に亡くなっている。しかも85年も経って後代の当主が最大の敬意を払って石仏を建立している。伝説に加えられた姫と聖観音の姫とは同一人物の可能性がある。
 先ほども言いましたが、聖観音の姫の伝説は別個にあり、忠克の蛇伝説と同時期なのでいつしか合わさった。と考えています。この合わさった経緯を調べれば真相が明らかになるかもしれません。
 今回、伝説が忠克に起こったことがわかり、聖観音と伝説の時期が一致したことは大きな前進です。あとはこの姫に何が起こったのか?そしてなぜ85年後に石仏が建立されたのか?いよいよ核心に近づいてきました。
 
 
 

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