2015年7月25日土曜日

神根小の石碑

明治・大正・昭和の神根地区の歴史

紀元2千6百年記念碑
 
  毎年子どもの運動会に行くと、木陰を求めてこの石碑のある大きなケヤキの下は場所の取り合いになります。でも不思議なことにこの6メートルはあろうかという巨大な石碑は何なのか?ということには誰も興味を持たないようで、誰に聞いても何が書いてあるか知りませんでした。しかし先日、脚立を持っていってデジカメで撮影し、頑張って全文を解読しましたので紹介します。石碑は紀元節による神武天皇即位より2600年を記念して建立したようですが、それだけではなく同年に実施された川口市との合併により、約50年続いた神根村が無くなってしまうことを惜しんで後世にこのような村があったということを伝えるために建立したようです。なぜ神根小の校庭に建立したのでしょうか?推測ですが以下のようなことが考えられます。

神根小学校。明治6年(1873)創立。明治42年(1909)現在地に移転。
1、神根小が小高い山の上にあること。
2、村の中で最も代表的な施設だったこと。
3、後世に伝えるという意義から、毎年ここに学び育っていく児童こそ、伝えたいと思っていたこと。
 
碑文。紀元節は神武天皇(初代天王)の即位の日で、戦前は祝日でした。しょう話15年はこの即位の年から2600年にあたり、全国で祝賀の催しが盛大に行われました。ちなみに現在の2月11日は建国記念日ですが、これが由来になっています。
  
   碑文からは村人たちの「いつまでも忘れないでほしい」という想いが伝わってきます。記述は今なおこの地に残る地勢、特色を捉えています。幸いにして今日の神根地区も「温和の気、肥沃の地」と謳っているように緑と耕地に囲まれた明媚な姿を残しています。かつての村民ではないですが、子どもたちが大人になっても美しい地域でありつづけてほしいと願っています。

紀元2600年記念碑
 
埼玉県知事従四位勲三等土岐銀次郎題額
 
維時昭和15年4月1日、埼玉県北足立郡神根村はその隣接する川口市に合併す
按ずるに明治7年、本県(埼玉県)を24区に分かつや、現大字根岸、在家は第23区に属し、石神、赤芝新田、赤山、新井宿、西新井宿、神戸、道合、木曽呂、東内野、源左衛門新田は第24区に属す。明治12年区制廃せられ郡制となるやすべて北足立郡の官下に入る。明治17年また根岸、在家は芝村に合し、石神、赤芝新田源左衛門新田、東内野、木曽呂、道合、神戸は戸塚村に合し、新井宿、西新井宿、赤山は安行村に合す。明治22年、町村制施かるるや、12大字をもって神根村と称する新村を成すときに戸数500余なり。
そもそも本村は郡の東南に位置し、東京の北約5里(20km)にあり、東西1里10町(5.1㎞)南北1里19町(6.09㎞)面積0.6平方理9.25㎢)
筑波の秀嶺を東に望む、富士の霊峰を西に仰ぐ、関東平野の中央を占める地勢、起伏多きも概して東と北は高く、南に向かいて低し、見沼用水、芝川運河その間を流れ、灌漑排水に利す。御成街道および県道三線ありて交通運輸に便す。温和の気、肥沃の地、里正(村長)統治の宜しき村人勤労の敦き、因りて以て産業大いに興隆す。今や織物、植木、花卉、米麦、蔬菜等年産二百万円を算する。旧関東郡代伊奈氏夙にその基を開く感謝に堪えない村民、意を教育に用ゆ。明治42年現地に尋常小学校を創立し、同45年高等科を増設。次いで校舎校地の拡張設備。内容の充実等、これ力しむ。昭和6年畏くも御真影を奉戴し、同10年奉安殿を造立す。これ皇太子殿下(平成天皇)御降誕奉祝の記念なり。村民また、敬神崇祖信仰の念に篤く、春日、朝日、稲荷、氷川の4村社並びに源長、薬王、妙蔵、大徳、宝蔵、真乗、多宝の7仏寺を護持す。現に戸数壱千余、人口6千を超え、正にその当初に倍するに至る。神根村の隆昌それ此の如し。
今ここに皇紀2600年、曠世(世にもまれな)の大慶(大きな喜び)に遇い奉る吾等如何なる恩幸(大変な幸福)に歓喜せざるにはおれない。すなわちこの合併をもって記念事業に当たる。まさしくこれ村民の熱望と県当局の斡旋によるものなり。嗚呼村名はたとえ改まるといえども、地と人ともとより異なるなし今から以後協力一致益々市民の本分を尽くし、もって地方発展の使命を達成せんことを期す。いささか村史を勒して(彫って)後代に伝うと云爾(うんじ)
皇紀2600年神武天皇祭日
浦和高等学校教授従五位勲六等秦慧玉撰竝書
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 

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