2017年3月1日水曜日

ブログ連載「お女郎縁起考」開始!

石神のお女郎様「妙延寺」

 川口市石神の妙延寺は別名「お女郎様」と呼ばれています。江戸時代にここで行き倒れとなった若い娘を供養するためにお堂を建てたことが由来になっているからです。「お女郎縁起考」は新井宿まちづくりたよりという会報に連載していたのですが、今年から季刊になったため、終了までに何年も掛かってしまうので、たよりの連載は打ち切り、ブログで定期的に連載していくことになりました。
だいたい月イチぐらいでやっていきますので、地元の方、歴史に興味のある方はお付き合いください。では、今回は1~3話までご紹介します。今日は3月1日。227年前、石神の森の中でお女郎が発見された日です。

お女郎縁起考-その1
 
 神根、安行、鳩ケ谷にはいろんな伝承、伝説があります。仏教説話的なものや現実離れした話もありますが、中にはこれは事実に基づいた話ではないか?という伝承・伝説があります。昔、人々に強く記憶される事件や事故があった。それが語り継がれるうちに脚色されていったのではないかと思えます。
中でもお女郎仏は実際にあった事件でありながら、主人公の女郎について当時も今も全く分からないという不思議な話です。寛政2年(1790年)石神の土手山という林の中で若い娘が行倒れていた。村人の介抱にもかかわらず娘は5日後に息を引き取った。うわごとを言って村人の問いかけにも応えられず、身元を示すものは一切なく、しかし、あまりにも美しい容姿から「女郎」ではないか?とか、大奥女中ではないか?はてはとある大名家の御落胤ではないか?などと、さまざま噂されました。
はたしてこのお女郎、何者だったのか?この連載ではお女郎の正体、どこから来てどこに行こうとしたのか?なぜここで行倒れてしまったのか?これを推測し仮説を立てて参ります。ほとんど何の手がかりもないので、すべてが僕の想像にすぎないのですが、巷間伝わる「お女郎様」ではなく、そこに生きた一人の娘として血肉を通わせようと思います。その時代の空気、親兄弟、生活した場所、そして感じたことなどを再現してみたいです。
じつは、このお女郎のことを小説をしてみようと思っています。なかなか忙しくて筆が進みませんが、その執筆の中で思ったことをこの連載で書いていきます。その小説の題が「お女郎縁起」なので、「お女郎縁起考」というわけです。では、今後をご期待ください。

女郎仏の由来
お女郎の由来についておさらいしてみます。
妙延寺の冊子には女郎仏の由来が載っています。
寛政2年(1790)3月1日に当地方に大きな暴風雨があり、石井家は当時村長を勤めていたので、翌朝官林(土手山)の見回りに行った処、山の中から若い女のすすり泣く声が聞えてくるので行って見ると、十八,九歳くらいの気品の高い女性が病に倒れて苦しんでおり、いろいろ事情を尋ねてみたが病重く言葉も絶え絶え、手掛かりになる所持品もなく、どこの者ともわからず、窮して林家の杉山さんと相談の結果、庚申塚に仮小屋をつくり、そこに運んで医師を招き治療を受け手厚く看護したが、薬石効なく遂に同月六日午前十時不帰の客となってしまった。やむを得ず近隣の者と相図り庚申塚に懇ろに弔った。
以上は石井栄松氏の手記によるもので他にもその女人は由緒ある身分の方ではないだろうかとか、越後新発田藩主の落胤で故あって江戸から国許に帰る途中不慮の災厄にあったのだろうと穿ったような別説も伝わっているがいずれも立証する何ものも残っていない。
女郎仏とはその女性があまりにも美しく可憐な乙女であり、身分を明かさなかったのでもしや女郎ではなかったかとの憶測から生じたものではないかと思われる。
と、このように日時、場所、経過が明確に記録されています。しかしながら当時も今もこのお女郎が何者で、どこからどこに行こうとしたのかという事情に関しては一切不明になっています。真実にたどり着くはずもありませんが、お女郎の人物像、また、事情について推理していきたいと思います。まず、いくつか疑問点整理してみます。写真はお女郎を葬った庚申塚。



お女郎の人物像

お女郎の謎を整理すると。
1、      お女郎が何者なのか?
2、      どこから来てどこに行こうとしたのか?
3、      どうして行倒れになったのか?
の3つになります。
 
まず何よりお女郎が何者なのか?というのが最大の疑問です。わかっているのは18,9歳ぐらいの美しい娘というだけであって身分やどこの生まれかもわからない。当時は服装や髪形、言葉づかいである程度その人の出自がわかりました。たとえば髷は武士と町人百姓ではっきり違いますし、服装も身分や年齢で違います。若い女性の場合髪は武家なら気品のある高島田、町人は結綿など。着物は武家なら絹や紬が使え、町人は木綿、百姓だと麻か木綿しか許されなかった。さらに未婚の場合振袖を着ていて既婚女性は着なかった。など。
このように身なりや髪形である程度出自の見当がつきます。また、言葉づかいにも武家と商人と百姓、上流階級か庶民かでも違っていました。加えてお国訛りもあります。しかしお女郎ではその辺の記述がありません。発見時の服装や髪形などからは判別できなかったものと思われます。これらのことから少なくとも上級武家の娘には見えなかったのではないでしょうか?このお女郎が越後新発田藩藩主の御落胤という巷説は想像しにくく、ごくありふれた身なりの女性像が浮かび上がってきます。しかし、見た人に印象に残るほど美しく品のある顔立ちだったために「女郎ではないか?」「上臈:じょうろう(身分の高い女中)ではないか?」などの憶測を呼ぶことになったのだと思います。写真は日曜ドラマ仁の旗本の娘橘咲役の綾瀬はるか。次号に続く。
お女郎縁起考その2
http://araijyuku.blogspot.jp/2017/04/blog-post_14.html
 
 

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