2017年11月24日金曜日

お女郎縁起考その9



過去の記事連載!お女郎縁起考(当会ホームページより)
http://araijuku2011.jp/%e9%80%a3%e8%bc%89%ef%bc%81%e3%81%8a%e5%a5%b3%e9%83%8e%e7%b8%81%e8%b5%b7%e8%80%83/

お女郎はどこから来たか?-赤山街道
 
    お女郎が東から来たとして、当時どこからどのようなルートがあったのでしょうか?
日光御成道は東の日光街道と西の中仙道の中間にあります。東から来たとすれば日光街道―日光御成道間のいずれかの道を通ってきているはずですが、下の図のように、北から越谷宿と大門宿をつなぐ越谷道、赤山街道越谷道、草加道、赤山街道千住道の4つがあります。石神を目指すこれらのルートのうち、越谷宿と大門宿をつなぐ越谷道と草加道は宿場間をつなぐ細道といったもので、旅人が通るような主要な道とは言い難い。しかし、越谷道と千住道は当時の武蔵国(埼玉県・東京都)東部の人たちにとってはとても重要な道でした。この2つの道は関東郡代伊奈氏の根拠地(赤山領)にある赤山陣屋に通じる道だったからです。


 関東郡代伊奈氏は徳川家康の三河以来の旗本で、初代の忠次が関東代官頭に任ぜらて以来ずっと他の代官とは別格の地位を継承しており、30万石に及ぶ支配地、江戸4宿(品川・新宿・板橋・千住)の支配、関東の河川行政、重要な関所の管理、江戸近郊の将軍や御三家の鷹場の管理、大奥用の物資の調達、公金貸付など、関東の民生や将軍家の御用など、じつに多様な職務に服しており、関東では知らぬ者はいない存在でした。赤山陣屋は江戸の馬喰町の郡代屋敷と各支配地の村々や宿場や関所などの所轄機関をつなぐ役割をしていて、そこにつながる道は常に役人や農民などが往来する道だったので、関東の民、とりわけ武蔵国東部の民にとっては日光街道や御成道以上に重要な道だったのです。土地不案内のお女郎たちが東から来たとすれば、この赤山街道越谷道か、赤山街道千住道しかなかったと思います。


この2つの道のどちらから来たのでしょうか? 
 その前に一つ考慮しなければならない問題があります。越谷道、千住道のいずれから来たとしても、お女郎の発見された土手山御林は北に大きくずれているのです。どうしてそんなに外れてしまったのでしょうか?それは2つの道は赤山陣屋で行き止まりになってしまいそれ以上西に進めないからです。なぜ西に進めないかというと赤山街道と赤山陣屋の構造が下図のようになっているからです。お女郎が土手山にいたということは、陣屋で行く手を阻まれ、反時計回りに広大な陣屋を迂回して来たということなのです。

赤山陣屋の構造
赤山陣屋は周りを低湿地で囲まれている上、いずこの道から来たとしても四つ門といわれる門に突き当たり、ここを通らなければならない。門には門番屋敷があって通行人をチェックしている。

                       再び登場 お女郎遭難図
*千住道は武南病院付近から西と東に分かれてそれぞれ赤山陣屋に通じる道がありますが、西を通れば赤山陣屋に進路を阻まれず御成道に抜けられることから、東を通って行ったと仮定しています。
 上図のように赤山陣屋は低湿地を外堀とした天然の要害であり、中に入る、あるいは通過するには四つの門をくぐらなければならない。越谷道、千住道のいずれの道から来たとしても門があり通行人はチェックされる。人目に触れたくないお女郎たちはそれを避けたい。あるいは嵐か日没のせいで門が閉まっていたか?しかし門を避けて西に抜けようとしても低湿地があり抜けられない。つまり赤山陣屋についた時点で行き止まり。そんな特殊な構造を知らなかったお女郎たちは、仕方なく赤山街道を外れて反時計回りに赤山陣屋を迂回して土手山御林まで行ったと思われます。しかし嵐の中で日没が迫り、地元の人間しか知らない道を行けば迷子になる可能性がある。まして千住道を南に下れば鳩ケ谷宿に通じる道(草加道)があるのに、なぜそんなリスクを冒したのでしょうか?そこにお女郎たちの行先(目的地)が関わっているように思うのです。少しでも早く目的地にたどり着くには、南から西に抜けるのではなく、北から西に抜ける方が早いと判断したのではないでしょうか?前回、お女郎は東から来た、と述べたのは、想定外(赤山街道・陣屋の特殊構造)の理由から街道を外れて陣屋を反時計回りに迂回したために「東から来た」ことになったと思うのです。
 
  そこを踏まえ越谷道は越谷宿から、千住道は千住宿から来たと仮定してみます。また、当時の旅は宿場から宿場への移動なので、それぞれどこの宿場に向かおうとしていたのか考えてみます。
 
越谷宿から
越谷宿から赤山陣屋までは7.2km。女性の足で時速3.5kmとすると2時間ちょっと。暗くなって道に迷って遭難したとすると、当日の日没が18時過ぎなので、16時前後に越谷宿を出立したことになります。(この時刻に宿場を出立するとは考えにくいが)この時間からの旅程を考えると、鳩ケ谷宿での宿泊を想定するのではないでしょうか?大門宿では遠すぎて日没に間に合いません。そして陣屋の門を避けるか、閉まっていたとしても、鳩ケ谷宿は南西にあるので、千住道を南下して草加道から鳩ケ谷宿に向かうのが妥当だと思います。もっとも、大門宿を目指していて、想定外の事情により遅れたのだとすれば別ですが。
千住宿から
千住宿から赤山陣屋までは14km。女性の足で約4時間。陣屋で日没を迎えたとすると、と遅くとも14時には千住を出立します。この旅程でもやはり鳩ケ谷宿を目指すのが妥当ですが、途中2か所、鳩ケ谷に向かう道がありながら、そのまま北上していることから、大門宿を目指していて、何かの理由で遅れてしまい、陣屋の門に阻まれて迂回したのかもしれません。
  
  以上のことから、越谷から来たとしても千住から来たとしても鳩ケ谷宿を目指していないことがわかります。お女郎たちはもともと赤山街道をたどって日光御成道を北へ、あるいは赤山街道大宮道を西へ行きたかったのではないでしょうか?
次回、地元の人たちはそれをどう考えていたのか?100年ぐらい前に書かれた文献をもとに考えてみたいと思います。

次号に続く。

 

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