2018年4月17日火曜日

第7回バスツアー「桜の比企秩父を巡る」報告

4月7日第7回歴史バスツアー「桜の比企秩父を巡る」に行ってきました。当初雨の予報でしたが、何とかまぬがれ、最後まで無事楽しく帰ってきました。ただ、桜が全く咲いていなかったので閉口しましたが。
最初の立ち寄り先は東秩父村の「和紙の里」。世界遺産の細川紙がテーマの道の駅です。
 かつて和紙を作っていた古民家。昔はこのような民家で家庭内工業として和紙を作っていたことがわかります。
 細川紙の歴史や東秩父村の歴史がわかるギャラリー
最近できた農産物直売。この他和紙製品のお土産屋や手漉き体験ができる製作場などがあります。
和紙の里を出て、途中酒蔵により、昼食をとる。そして午後は寄居にある県立川の博物館に行きました。
 川の博物館のシンボルである巨大水車。
 一同余りの大きさにびっくり
 川の博物館は荒川の歴史や文化、人々の暮らしなどわかりやすいビジュアルで展示してあります。この写真は山から伐りだした木を即席のダムを作って、水の手を切り、その水勢をもって丸太を一気に流す「鉄砲堰」の実演。すごい迫力。
今回のテーマである「荒川の西遷」についてもここで学びました。館内に入ると最初に伊奈忠次の人形が荒川の西遷について解説していたので、とても分かりやすいです。

今回使った教材(資料は荒川上流河川事務所より)
*タイトル下のURLをクリックすると荒川上流河川事務所作成のPDFに飛びます

荒川の瀬替え
http://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000659524.pdf

荒川の水運
http://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000670423.pdf

荒川の洪水
http://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000670309.pdf


 そもそも荒川の西遷は武蔵国東部低地の洪水防除とその辺りの耕地化、江戸の洪水防除、秩父地方との水運を開くなど、家康・忠次の関東のグランドデザインの一環として施工されました。その結果、入府当時の関東の諸課題の多くが解決しました。無論それが完全無欠ではなく、荒川が西に移し替えられたおかげで、荒川右岸(西側)の地域は氾濫原に設定され、これ以後しょっちゅう洪水の被害に悩まされることになるのです。しかし、利根川東遷や荒川の西遷を徳川幕府や伊奈家が異常な情熱と費用と時間を費やして、この400年前に行っていなかったならば、後の治水や開発はより困難を伴うものになり、特に東京は治水上決定的な欠陥を抱えたままになっていたことでしょう。今日首都として機能を果たせているのは、じつに先人の血と汗の賜物なのです。重機もコンクリートもない時代にこの大事業を成し遂げた彼らは、偉人中の偉人と言ってよいでしょう。


 川の博物館を後にして向かったのが長瀞の宝登山神社。ここには400年前伊奈忠次が献木した桜が植わっています。徳川家康が関東に入府した当時、全く見知らぬ土地で、しかも小田原の北條氏が滅ぼされた直後とあって、民心をどう治めるかが最も重要なテーマでした。北條氏の遺臣、在地土豪、中でも寺社勢力は大きな勢力を持っていて、対応を間違えるとたちまち反乱の求心力と化す恐れがありました。何しろ家康自身、三河の一向一揆で存亡の危機に立たされた経験があるので、とりわけ慎重に懐柔しなければならないとの意識が強かったのです。そこで寺社政策を任された忠次は、寺社に領地や無租税地を与えたり、社殿を再建したりと、大変に気を使いました。その一環としての桜の献木だったのです。秩父ではこの他、秩父神社や三峰神社にも同様のことをしています。

 伊奈桜の前で記念撮影。後ろにあるのが伊奈桜の2代目。あまり元気がないので、今は孫植えをしています。
宝登山神社拝殿。足の達者な人は参拝に行きました。

その後長瀞に移動しました
 岩畳の上に立つ
 桜が咲いていればなぁ、と残念に思います。
 時間をたっぷり取ったので、お土産を存分に買い込む
長瀞の駅舎、インスタ映えしますなぁ

最後に花園フォレストに寄りました。ここはバラ園と洋菓子のリゾートランドです。
門をくぐるとバラ園ですが、、。
 残念ながら薔薇も咲いていませんでした。
しかし、焼き菓子のアウトレット、ケーキなどの生菓子、ピザとケーキのビュッフェ、喫茶コーナーなど。お土産とスイーツを堪能しました。疲れが取れました。

この後天候が悪化したので、時間を繰り上げて帰途につきました。予定より30分早く新井宿駅に到着。皆さん元気に帰りました。
バスツアーは今年はこれで終わり。次回は来年の秋に予定しています。ぜひまたお会いしましょう。ではまた。
以上報告でした。

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